『水泳から焼き肉へ』

 昨日プールに行ったら区民大会とやらで一般開放はなく、気を取り直して今日また行ったら休館日だった。もちろん下調べをしない俺が悪いのだが、こういうときは思い切りメゲる。水泳と決めたら水泳しかダメな性分である。ウォーキングでもジムでもなくプールにドボンとやらなきゃ気が済まないのだ。
 友人と旨い焼き肉屋の話で盛り上がって、よーしこれから食いに行くぞって、そしたら休みで、かといって焼き肉以外のものはまったく食べる気がなく、しょうがないから他の旨い店を探して、それも全部満席で、仕方なしに適当な店見つけて入ったらそこがめちゃめちゃマズくて後悔しても、焼き肉以外の物を食べたいわけじゃないからしょうがないか、というような、自分の頑固さにちょっとだけ満足感を覚える、そんな感じだ。
 今日はもうプールやめた。近くのスポーツクラブという手段もあるが、芋洗い状態の25メートルプールを泳ぐ気はしない。そもそも水泳には焼き肉ほどの思い入れがない。
 ただこうして書いているうちにどうしても焼き肉が食いたくなってきた。目標を変更して今日は焼き肉を食うことをゴールとしよう。



『マロンエレベーター事件』

 マロンブランドは普通のマンションサイズのビルの6階にある。当然エレベータでの移動である。そのエレベータは狭く、4人も乗ればおしくらまんじゅうである。
 さっきナチュラルローソンで抹茶アイスを買って帰るとき、事務機器の営業の女性とエレベータが一緒だった。制服で茶髪巻き髪、香水をプンプンさせてかなりエッチな感じの人だった。扉すれすれに乗った俺の後ろで彼女が溜め息を吐く。はぁ、ふぅ、うっ…。活字だけを見れば官能小説である。
 なんともいえない緊張感の中での時間は長い。事務所がある6階に上がるまでとてつもなく長く感じる。女性の溜め息吐息はまだまだ続く。はぁはぁ、ふうう、うっうっ…。なんか変な行為でもしているか、それとも具合でも悪いんじゃないかと思って軽く斜め後ろに振り返ったら、なんと俺の目に視線を合わせて微笑んでいるはないか。その笑いは一体何なのか。まさかこんな狭い場所で誘惑でもしようとしているのか。
 インタビューしようと思ったが、「なんで僕を見て微笑むのですか?」とマヌケな質問しかできなさそうだったので、扉が開いた瞬間に降りた。
 彼女は(閉)ボタンを押すこともなく、自然に扉が閉まるのを待っていた様子だったので、最後にもう一度振り返ったら、バインダーを小脇に抱え、首を傾げて微笑みながら軽く手を振っていた。
 俺はびっくりこいてしまったが、ついつい習性で「おつかれさまでした」と頭をぺこりと下げたら、女性は手を振っていた方の肩を頬に近づけて首を傾げる、いわゆるブリッ子のポーズをとりながら「か~わいい」とこぼした。
 俺はポカンと口を開けながらゆっくり閉まってゆく扉に消える女性を呆然と見つめるだけだった。
 2009年9月4日。これがマロンエレベーター事件の全容である。



『押しの強い麻婆豆腐』

 某駅前の中華屋へランチを食べに入った。メニューを見ながら青椒肉絲を頼もうとしていた時だった。
奥のカウンターのお客さんに店員がなにやら尋ねていた。
 「麻婆豆腐じゃナカタカ。作たからコレでダメか?」
 どうやら客の注文を聞き間違えたらしい。人の良さそうな客はキッパリとは断れず、頬杖をついて小さな声で唸っていた。すると店員が追い打ちをかけるように言った。
 「作てシマタからコレでダメか」
 客は頬杖をつきながらまだ小声でうなっている。
 「ダメか!」
 客はしぶしぶコクリと頷いた。
 店員は「モシわけない。ありがとゴジャまっ」と言うと、くるりと振り向いて厨房にいるコックに“やったね”という感じでニコッと笑った。
 いろんな意味で中国には勝てないが、あのねばり強さは学ばねばならん。



『思いだせない人からの電話』

 知らない奴から「オレ、オレ。覚えてるだろ」って電話がかかってきた。いつどこで出会ってどんなエピソードがあったかを聞いてもちっとも思いだせない。
 昔の記憶には自信があるが、それでも記憶にない。28年前のことでよく遊んで酒も飲んだそうだ。一向に思いだせないけど、あまり思いださせないのも相手に気の毒なので、「おーおー、あん時の。なんとなく思いだしたよ」と言ってしまった。
 相手は「やっと思いだしてくれたか」と安堵してた。続けざまに「あんときさぁ、センター街で○○先輩がさぁ…」なんてきたもんだから、バツが悪くなって「御免、今、新幹線。またかけて」って切ってしまった。
 新幹線のデッキで喋っていたことは事実だが、あとは全部、調子を合わせてテキトーに喋っただけ。
 最低だな、俺。まさかオレオレ詐欺でもあるまいし、なんで「ほんとに覚えてないんだよ」と正直に言えなかったんだろ。いくらショックでも知らないなら知らないと言うべきだ。日頃、人には「正直に本音で喋れ」と檄ってるわりには、自分はいい加減極まりない。
 反省した。知らないのも思いだせないのも恥じゃない。知ったふり、わかったふりする方がよっぽどみっともないし相手に失礼だ。そいつはどうやって俺の電話番号を知ったのかわからないけど、よほど懐かしくて思わず電話してきたはずなのに、だめだわ、おれ。



『走る』

 仕事でイモトの走りは見られなかったが、昨日、日テレでドキュメントをやってたので見てみると、かなり大変だったみたいだ。当たり前か、フルマラソンの3倍もの距離を走るんだ、平気な顔で走れるわけがない。あの企画をやらせと言う心ない人もいるけれど、携帯電話が発達したこのご時世にどうしたらやらせができようか。沿道の誰もが手にする携帯は個人メディアであり、誤摩化しが発覚しようものならば即、誰かの元へ送信、それが伝染して直ちにパソコンは混乱する。多少ゴールするタイミングを調整することはできるだろうけど、本人が走ることに変わりはない。

 それにしても、なぜ人は走る人を見ると感動するのだろう。マラソン、駅伝、スプリント、トライアスロン、デカスロン、子供たちの運動会でもそうだ。人がただただ無心に前を見て走るだけで、人の心は揺さぶられる。そこに過剰な演出がなくても人の走りは誰かを感動させる。順位があろうがなかろうが、ひたむきに走る姿は感動を呼び、走る本人も感動する。余計なことは考えなくていい、理屈抜きでただ走ることに人は心打たれるのだ。
 走り続けている生き方をする人にも感動する。ずっと自分の向かう道を見定めて邁進する姿には憧れさえする。音楽でも趣味でも職人でもポリシーでもなんだっていい。その人なりに人生を走り続けている姿が美しいのだ。 
 走る感動は確実に伝染する。自分にとって走るとはどんなことなのだろう?さっきまで走ることなど無縁だった自分が、そう思うだけで、もう走るためのストレッチは始まっている。その先はあれこれ考えず、まず前に足を踏み出してみる。交互にテンポよく。実際に足を踏み出さなくても、自分を見捨てずに前を向くだけで走りは始まる。
 マラソンが人生に喩えられることがなんとなくわかる。人は走るために生まれてきたのかもしれないとさえ思えてきた。
 イモトの走りはなかなか良かった。立派だと思った。




2009/09/07

『水泳から焼き肉へ』

2009/09/04

『マロンエレベーター事件』

2009/09/03

『押しの強い麻婆豆腐』

2009/09/02

『思いだせない人からの電話』

2009/09/01

『走る』
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