『やなニュースばかり』

 押尾学、のりぴー、一体どうなってるんだ?確かに芸能人は損だ。こういう時に有名すぎるのが災いする。一般の社会人だったら同僚とか近隣の人とか同級生とか親戚レベルに後ろ指さされるだけで終わるが、芸能人はそうはいかない。そういう覚悟で入るのが芸能界だし、芸能生活の中でいやでもそういうことになるから気をつけねばならんという自負を持つのが芸能人だと思う。
 のりぴーは昔から好きだった。特別なファンというわけではなかったが、なにか人を浄化させてくれるような存在感が好きだった。まだ事件の真相は明らかになっていないが、クロならクロで堂々と、願わくばシロであってほしいと子供のように願っている。
 大原麗子、ショックだ。例のウイスキーのCMはもちろん、いちばん彼女が輝いていた『くれない族の反乱』というTBSドラマの彼女は気が狂うほどに可愛かった。“~してくれない”という主婦たちの不平不満、責任転嫁をモチーフにした小気味良いドラマだった。竹内まりやが歌った主題歌の『もう一度』が素晴らしかった。俺の内側には女心があるんじゃないかと思わせてくれるような曲で、2コーラス目のサビで転調する頃には、完全に主婦になりきっていた。
 ワイドショーがにぎやかなのは結構だが、残念なニュースばかりでグッタリする。どれもこれも悲報ばかり。クリントンが軟禁されているアメリカ人記者を釈放させるために北朝鮮に行って、将軍様と3時間話したことがトップニュースにならないこと(民放だけど)が不思議なぐらい国内のニュースは残念なものばかり。早く純粋に感動できる高校野球と世界陸上が始まらないだろうか。



『8月6日という日』

 原爆投下の日である。こういう日も「記念日」というのだろうか。記念にしてはあまりにも含みが多い表現である。一昨年は衝動的に広島と長崎に向ったが今年は中目黒で合掌しよう。
 僕が生まれたのは戦後17年、まぎれもなくまだ「戦後」という言葉がメディアで頻発していた頃だ。小学生の頃には「戦争を知らない子供たち」というフォークソングが流行り、意味も考えずに軽快なメロディーを口ずさんだものだった。
 ともだちの家に遊びに行くと、おじさんかおばさんによく言われた。「お前らはえーなー。おじさんたちの頃は戦時中で芋ばかり食っとった」。おじいさんとかがいる家となるとほぼ100%の確立で戦争の話を聞かされた。戦後17年生まれの僕らでも戦争は人ごとだったのに、今の若者たちにとってはどれぐらい遠いことなのだろう?
 もうしばらくすれば戦争を知らない子供たちが爺さん婆さんになり、おじさんやおばさんは戦争の話も聞かされたことのない世代になり、その子供たちは戦争をイメージすることさえできなくなるかもしれない。このままでは太平洋戦争は僕らが思うところの「戦国ロマン」みたいな想像的なものになってしまうかもしれない。犠牲になった兵士や民間人や、もちろん敵国(こういう表現がそもそも良くないのかも知れないが)のことも含めて、軽々しく「ロマン」みたいな表現でくくられてしまったら大変なことになる。
 戦争はロマンではない。死んだ人たちを尊び鎮魂の念を捧げることは当然だが、どれもこれもすべてが不幸以外のなにものでもない。
 戦争を知らない僕ら世代が、この先どうやって戦争を伝えていけばいいのだろう。ただただこの国の子供たちが永遠に「戦争を知らない子供たち」であるために、いつもなにかを考え伝えていかなければならないことだけは確かだ。



『1コインカレー』

 事務所の近所に「1コインランチ」という看板が出てた。メニューが好物のチキンカレーだったので、早速その店に入った。中にはしょぼくれたリーマンばかりだったが、500円は魅力なのだろう、店内はなかなか活気に溢れていた。
 若い店員ひとりが切り盛りするエコなシステムは、まず客が入店したときに料金を支払い、学食みたいにカレーを盛りつけてくれるまでカウンターで待って、水もセルフで入れて、そんな感じであとは空いてる席を見つけてパクッである。
 若い店員は汗だくになりながら微塵の余裕もなく働いていて、ただただ無愛想に(というか必死なんだろうが)皿にご飯と福神漬けと卵とグリーンピースとカレーを盛りつけていき、客が帰るとテーブルに残された皿を片付け洗う。それを機械仕掛けのように繰り返している。
 セルフサービスだと思い食べ終わった後の皿とコップをカウンターに戻してあげたら、「申し訳ありません。ありがとうございます」と店員の顔がほころんだ。あまりに余裕がないから客との会話などないのだろう。『食べ終わったお皿はカウンターにお戻しください』と貼り紙でもしておけば少しは負担も軽くなるだろうに、なんておせっかいなことを思いながら、こうして皿を運んでもらうだけでもかなり助かるんだろうな、なんてしみじみ。
 こういう若者はたったひと言で未来が拓けるものである。帰りがけに「おいしかったよ。500円じゃもったいない」と言ったら、「ありがとうございます。嬉しいです」と無邪気な声が返ってきた。カッコつけて背中越しに言ったから彼の顔は見れなかったけど、きっといい笑顔してただろうな。
 たった1コインですごく得をした気分になった。



『屁』

 飲んだ翌日だったので駅まで歩いていた道すがら、クリスタルキングの高音担当のようなもじゃもじゃヘアの男性とすれ違った。かなりワイドなヘアだったので前方50メートルぐらい向こうですでに存在感を確認し、一歩また一歩と近づくにつれどんどん大きくなっていくヘアに釘付けになっていた。そしてクリスタルと正にすれ違おうとした時だった。彼は足を止めるとともに、直立不動のまま思いっきり「ブォホッ」とかましたのだ。
 まぎれもなく「屁」である。高音どころか、かなりの重低音で稲妻が光る前の地響きのような迫力のある音だった。しかもかなり初速が早く、ゆっくりと出続ける細長いものではなく、一瞬に肛門を全開にして腸に溜まったガスを一気に放出するクシャミみたいな大胆なものだった。
 さぞや恥ずかしかろうクリスタル、と思いきや、反対方面に向かおうとする俺に顔を向け軽くエシャク。なんと清々しいというか無茶苦茶というか、ともかく奴の人間的なスケールのデカさにたまげてしまった。
 彼女の前では屁もこけない情けない草食男子が蔓延する中、あまりにも見事でロックなぶっこき屁。それがショックでショックで、俺なんてアイツに比べたら単なるウジ虫だと思えて落ち込んでしまった。
 まさか屁ひとつでこんなに落ち込むとは思わなかった。ましていきなり道端での爆音だ。普通は迷惑なはずなのに、わけのわからない感動が俺の琴線をびんびん鳴らした。
 価値観や美学なんてものは一瞬にして変わってしまうものなのだろうか。そんな哲学的なことさへ考えさせられる、奥深い屁との出会いでした。



『走っただけの夏休み』

 土ぼこりが混じった汗を洗い流すために水道水を頭からかぶり、ブルブルッと首を振って水滴を払い落とした。
 なんで毎日、暑い中練習しなきゃいけないんだ。せっかくの夏休みなのに、クーラーの効いた部屋でテレビ見ながらゴロゴロしてたいのに、なんで俺だけ走ってるんだ。
 走るというより走らされているという犠牲的な思いの中、休めない夏休みは過ぎて行った。どこに行くでもなく、ただ校庭と家を往復し、いつも同じ部活仲間と顔を合わせ、駄菓子屋で先輩の悪口を言って、大会に出れば惨めな結果だけをまとい、一念発起して頑張るものの長続きせず、言い訳と愚痴を交互に吐きながら猛暑のグラウンドを走った。
 始まる前の期待感とは裏腹に、夏休みはいつもなんとなく、そしてなにもなく過ぎて行った。

 そんな夏休みがなぜか恋しい。誰からも走らされることのない日々はとても退屈だ。走らされながら愚痴を言い合えある仲間もいない。歳をとったら走るのは自分の意志以外なにものでもない。そして僕はいつしか走れない体になっていたことさえも気がつかなかった。
 記憶は遠い昔にあり、気持ちはそれと変わらないが、肉体は記憶や気持ちを裏切っていた。
 走らされない今、走れない今、ならば、まずは歩こう。歩けばもういちどあのなにもない夏休みに戻れるかも知れない。少なくとも公園の水道で水を浴びることだけはできるはずだ。
 それだけでも夏は素晴らしい。なにもない夏なんて、きっとウソだ。




2009/08/07

『やなニュースばかり』

2009/08/06

『8月6日という日』

2009/08/05

『1コインカレー』

2009/08/04

『屁』

2009/08/03

『走っただけの夏休み』
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