『プロならば』

 3月になったとたんに冬に逆戻りだ。春とは名ばかりの寒空に溜め息を吹きかけてみれば、白い吐息が寒気の中を上って行く。
 春よこい、こい。不振のイチローも寒空に息を吹きかけては立ち上ってゆく白い息にスランプからの脱出を重ねているのだろうか。世界一のヒットマンゆえに彼の背中にのしかかる責任は重く、まして星野をこきおろした落とし前は国際試合でしか証明されない。日本の威厳を取り戻すべく、イチローはただひたすらにスイングを重ね、寒気を切り裂いていることだろう。

 俺たちにキャンプはないが、この季節に素振りを繰り返し行っていなければ新年度からは戦力外通告されるだろう。景気がどん底といわれる時代に、デスクに向っているだけでメシが食えるほど甘くはない。
 メシを食うためにどう動き、動いた記録をどうデスクに残すかだ。パソコンに向かうだけならアホでもできる。この時代、利口なアホはパソコンを離れカラダを使いながら日々と向き合っている。

 人はなぜ言い訳から入るのだろう? イチローだって言葉ではなくカラダで取り返そうとしているのに。
 ならば素振りをしろ。何度も何度も何百回も。そこにバットがなくとも、スパイクシューズがなくとも、広いグラウンドがなくとも。至らなかった点を修復するために、自分の軌道を正してくれ。
 見逃し三振など失敗ではない。打ちにいって空振り三振をすることでしか失敗の意味は得られないことを、いい加減わからなければならない。
 素振りが力になるのは寒い間だ。春になればシーズンが始まる。始まったときに素振りができていない奴は、試合には出られない。社会とはそういうものだ。



『3月。卒業。』

 1年の間でいちばん感傷的になるのが3月である。卒業という儀式があることでこの国の人々の心は大きく揺さぶられてしまうのだ。
 卒業で揺れる心。その揺れの大きさは恋心に比例する。
 この学び舎に通いつづける間に誰かを好きになった。この教室で好きな人が頬杖をついた。あの校庭で彼は白球を追いかけた。そして渡り廊下では…
 校舎の隅々に至るまでどれもが恋愛映画のセットである。主役は自分。BGMはあなたの大切にしている曲。それが何度も何度もリフレインして…そして人生初の主役を『卒業式』というシネマの中で演じることになる。
 いったい何を卒業するのだろう?どうして卒業しなければならないのだろう?卒業とはしがみついていたい気持ちを切り離す残酷な演目なのだろうか。喜びの涙なんてどこにもない、哀しみだけが瞼を滲ませ、やりきれない想いとなって足下を濡らす。
 もう子供じゃない、そんなことはわかっている。だとしたら、いったいあと何回卒業すればいいのだろう?何を卒業すれば何がはじまり、その次にはどんな卒業が待っているのだろう?

 3月になった。卒業の季節に自分に問いかけたい。卒業って、恋って、僕って、わたしって。
 いつまでも誰かに恋することができるだろうか?
 卒業。おわりではなく、はじまりでもなく、見失ってはいけないきれいな自分。



『制服を脱いだライダー』

 近所の中華屋に餃子を食いに行ったら、黒スーツづくめの団体がわいわいと飲み食いしていた。その数ざっと15人、内女性はひとり。紅一点という表現にはほど遠かったがそれでも性別は明らかにひとりだけ別である。オスたちは唯一性別の違う生き物にセクハラぎりぎりの会話をしかけ盛り上がっていた。
 店のキャパはせいぜい客20人ぐらいだろうからほぼ満席の状態で、しかもやたら声がでかく、元気というよりは迷惑に近いにぎわいだった。
 どこの団体だろ? スーツの色味からして公務員かお堅い系の会社員だと思っていたら、言葉の節々に「中隊長!」とかなんとか、規律正しい系の言葉が放たれていたので、すぐに桜田門のたぶん交機(交通機動隊)だと思った。いわゆる白バイ乗ってる人たちである。耳もつぶれてなさそうだしカラダも頑丈すぎないし、たぶん武道系のロックアウト部隊というよりは、そっちね。
 彼ら以外の客は俺とウチのスタッフのふたりだけで、もう店内は彼らの独壇場になっていた。
 とにかく声がデカく、頭をぺったんんぺったん叩きまくったりとっくみあったりで、こどもみたいに大騒ぎしているのである。
 その時である。多分常連だと思われる人が、のれんをくぐってひょっこり入店してきた途端に彼らがピタッと静まった。これも職業柄だろうか、店内には妙な警戒心を孕んだ緊張が訪れたが、2秒後にはまた泥んこ合戦のような賑やかな展開になった。
 「多分常連」の人は、その賑やかすぎる光景に立ち止り厨房の中の女将になにやら目で信号を送ってそのまま店を出た。
 その模様を見て、彼らはもう一度静寂し、またまた2秒後には誰かが「帰っちゃったよ」と鼻で笑うと、たちまち冷笑は広がった。
 
 制服を脱いだらこんなもんなんだろうな。女子高生だってそうだもん。制服は特権。脱いだらそんなもん。
 それにしても彼らはあんなにガンガン飲んで、翌朝までに完全に酒は抜けるんだろうか。
 せめて白バイポリスには仮面ライダーのようにかっこよくいてもらいたいもんだ。



『ナチュラルアルツ』

 久々にグラビアの現場に顔を出した。女の子たちはみんな水着である。
 担当編集者とは17年来の友人で、同い年でもあるからなにかと気が合い、今では現場で隅に追いやられながらもふたりでコソコソとセクシーショットを拝ませてもらっている。
 「ナチュラルアルツだね」。耳障りはマイルドだけど聞き返せば「ナチュラル」と「アルツ」が組合わさったちょっとショッキングな言葉をその友人に言われた。
 確かに自覚症状はある。昔のことはよく覚えているが、ここしばらくのことはまるで記憶がなく、ついさっきのことなどまったく覚えていない。さらに名前、これも最近、ちっとも覚えられないというか忘れてしまう。失礼な話である。
 人と語らいながらいろんなものを組み立てていく仕事に就きながら、顔を見ても名前が出てこないなんて、その人に対する無礼とともに、自分的にもかなり落ち込む。
 笑い話の中に出た「ナチュラルアルツ」という言葉が、頭にこびりついて離れない。未来に対する不安、今への不安、対人関係に於ける不安、どれもがその言葉の中に凝縮されているからだ。
 思い出だけでは生きていけない。記憶だけでも生きられない。今、目の前にあることを記憶して、それを後日鮮明に甦らせるスイッチを持たなければこの仕事は務まらないだろうし、きっと僕のことも忘れられてしまうだろう。
 顔、名前、特徴、声、匂い。歳を重ねる毎に人のデータは膨大になっていくが、そのどれもにきちんとナンバリングできるように努力しなけりゃならん。そのためには努力、がんばるしかないのだ。
 実際、街中でバッタリ会って「あ、クリヤマさん」って言われたら嬉しいもんね。せっかく声かけてもらったのに「えっと、だれだっけ?」って、限りなく失礼。
 単に気をつけるだけではなく、努力すること。単なるノリに留まらず、人をきちんと記憶しておくことが、これからの僕にとってもっともっと大切なことになるのだろう。



『チケットあれこれ』

 芸能界中心の仕事をしていると思われがちで困っています。マロンブランドは主に広告を中心としたエディトリアルを軸にぼちぼちとやっている会社で、芸能界モノはごく稀なわけです。それでも芸能界の仕事が多いように思われるのは、やはり芸能界という世界が華やかで人目につき易く記憶にも残り易い特殊な世界だからだと思います。そこにマロンブランドの名前を見つけると、ついついそう思ってしまうのでしょう。
 大変困っているのは、安易にサインもらってくれとかチケット取ってくれとか、なかには芸能人にさせてほしいとかミュージシャンとしてデビューさせてほしいという法外なお願いをする人がいるからです。
 時にチケット取ってあげたことはあるけど、それももうやめています。簡単にチケットを取ってあげるとろくなことはないからです。
 第一、感動がなくなる。人気のあるアーティストのコンサートや舞台などは、チケットが取れるか取れないかというドキドキ感がドラマを生むわけで、そのためにファンクラブに入ったり前売り発売日に朝からじゃんじゃん電話をしたり必死になれるわけです。
 それがコネひとつで安易に手に入ってしまったら、その喜びは半分以下に低下してしまい、ありがた味など微塵も感じない不感症になってしまうからです。
 中にはギョーカイ席、つまりインビ(招待券)をダイレクトに要求する不届き者もいますが、そういう奴が発生するのも、元を正せば誰かがコネを利かせたところに起因します。
 ギョーカイ人が招待席で観ることは仕事です。メディアに携わる者が、その演目を吟味し、どう評価し、どう伝達するかを見定める。確かにラッキーなことではあるけれど決して遊びではないのです。
 人気チケットを駆け引きの切り札にするモラルの欠落した業界人もいますが、それはもうそっちの世界で好きにやってくださいとしか言いようがありません。モテなくてダメな奴が多いです、そういう人って。
 本当に観たいもの、聴きたい歌って、そこに向おうとする想いの深さに比例して感動するものです。
 ちょっと安易な頼まれごとが多かったので、僕の持論を書きました。




2009/03/03

『プロならば』

2009/03/02

『3月。卒業。』

2009/02/27

『制服を脱いだライダー』

2009/02/26

『ナチュラルアルツ』

2009/02/25

『チケットあれこれ』
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