『ラジオとテレビ』

 テレビは年末特番ばかりでつまらない。年始にも特番だらけでおそらく1月中旬ぐらいまでこの調子でダラダラとタレ流すのだろう。飽き飽きである。たまに休日にゴロンとしてテレビを観ると、昼間の時間帯は夜の特番やドラマスペシャルの番宣ばかりでいやになる。一見、気合いが入っているように見えるが、実は制作費削減のため自局の宣伝番組を流すしか仕方ないのである。要するに番組制作費が足りないので、特番で使う映像を繋いで『特番の宣伝番組』を仕方なく作るわけだ。
 よくよく観てみれば、もうほとんど特番の情報を知らせてしまっているではないか。マラソンで言うならば確実に35キロ地点まではどんなレースかを教えてしまっている。もちろんそれからの7.195キロにドラマがあるわけだからすべてを種明かししているわけではないが、それにしても番宣番組で6割以上を観せてしまうのはどうだろう。それほど局も受難ということなんだろうな。
 やっぱりラジオがいいわ。毎年恒例の『ニッポン放送ミュージックソン』など本当に素晴らしい。無責任な憧れよりも身近な温もりがある。漠然とした未来よりも今日の大切さがある。観るという直接的な感覚ではなく、聞くことでイメージが生まれる。ちょっとしたノイズがまたイマジネーションを豊かにする。テレビに映る人はどこか遠くに感じるけど、ラジオだとすぐ近くに居るような気がする。実際、さっきテレビで観たばかりの人の声がラジオから聞こえてくると親近感を覚える。
 ユーミンの『恋人がサンタロース』がかかった。パソコンの画面を見ながらでもなんだか気持ちが軽くなる気がする。こんな、なんてことないことがとても気持ちよいのだ。なにより「観なくていい」というだけで、人はいろんなことから解放される。
 本当に観たい番組以外は、ラジオを流して生活するのも悪くない。その方が手も足も目も自由だ。そしてテレビ局には、観たくて仕方ない番組を作ってほしいものだ。



『サンタ』

 事務所の白板にツリーと雪だるまの絵が描いてあった。過剰なクリスマス協奏曲は嫌いだが、こういったちっぽけなことは心に響く。不景気な世の中だからイヴぐらいウカレてもいいと思うし、張り切りすぎて年末までスッカラカンになるのも結構なことだ。どんどんやってくれ。
 相変わらずクリスマスには関心が低い俺ですが、街の電飾はキレイだから好きだな。最近は民家でもキラキラと電飾をして賑やかで良い。
 そういえば俺は小学校4年ぐらいまでサンタクロースの存在を信じていた。ボウリングゲーム、野球盤、バスケットボールゲーム、人生ゲーム、毎年イヴの枕元に置いてあった。両親が事前に何が欲しいかをリサーチして気を遣って買ってくれていたものだが、サンタの存在を疑いはじめたのもクリスマスプレゼントそのものだった。野球盤の裏側に『ねりや』と地元の玩具店のシールが貼ってあったのだ。なんでサンタさんが「ねりや」でプレゼントを買うんだろうと不思議に思った俺は、父親に、”ねぇパパ、サンタさんはフィンランドからやってくるのに「ねりや」でプレゼントを買うの?”と聞いたら、父親は”きっとウチに来るまでにプレゼントがなくなってしまって「ねりや」で買ったんだろう”と苦しい言い訳をした。さらに”じゃぁサンタさんはあの格好で「ねりや」にはいったの?”と聞こうとした時に、なんだか変だと思ったのだ。
 それが俺のサンタ離れのきっかけだった。
 以降、いろんな人にサンタっぽいことをしたけれど、もういやになった。イヴの夜だけではなく、毎日せっせとなにかを届けてあげられる人になりたいと、実は真面目に思っているのです。



『立派な外国人』

 日曜日、外でドカンという音が聞こえたので、外に出てみると案の定自動車事故だった。ぶつけたおっさんは動揺し、ぶつけられた若葉マークのおばさんは目が・になっていた。人の不幸にはかなり首を突っ込みたいタイプなので早速ジャージのまま現場に駆けつけると、結構ハデに口論を繰り広げていた。
 現場検証的にはおっさんの前方不注意による追突で、おばさんの車はハンドルをとられ民家に激突なので、どうみてもおっさんは分が悪いのだが、耳をすませてみると、おばさんの優柔不断な運転が事故を招いたとおっさんは激弁していたのだった。
 おばさんは頭に血を上らせながらも知識的なものに乏しく、そこをついておっさんはたたみかけている。なんかアメリカの裁判みたいなもんで、殺人しても理屈で無罪にしようとしているみたいな、そんないたたまれない雰囲気だったので、ついつい口を出そうとしたら、通行人の外国人の紳士が流暢な日本語でおっさんを諭しはじめたのだ。
 「とりあえず警察呼びましょう。示談はそれからでいいと思いますよ。アナタ(おっさん)良くないと思います。追突したのはアナタです。変な理由はつけない方がいいと思います。ダイイチ、ワタシ、見テイマシタ。適正な判断を警察にしてもらいましょう。これぐらいの事故で済んだのだから、キレイに処理すべきです」
 今、その場所でもっとも必要な言葉を外国人が喋った。おっさんはたちまちショゲて、どうもすみませんを連発し、おばさんは、「わたしの運転が未熟だったからです」となんだか爽やかな方向へと場面は展開した。ひょっとしたらこのふたりにロマンスが生まれるんじゃないかってぐらいにキレイな雰囲気に。周囲を囲んだやじうまたちにも(俺も含む)笑顔が。
 それにしてもあの外国人、シブイ。外国人でも、この国に住んでいるという自負が感じられた。悪い外国人はいっぱいいるが、ああいう毅然とした態度を見ると、日本人はまだまだ遅れていると感じて仕方ない。



『C調なヤツ』

 昔仕事していた奴とバッタリ会った。場所は渋谷センター街。日本で一番人口密度の高い路上である。
 そいつは昔、そこそこデキる奴だったが悪企みがバレて肩を叩かれて地方へ転勤させられた。もう10年以上経つだろうか。別に仲が良かったわけではないから、特段気にとめていたわけでもなく、かといってサラっと忘れてしまうような印象の薄い奴でもなかったので、頭の片隅にはチラっと居た。
 相変わらずウサン臭さをプンプンさせながらバリバリに歩いていたので、「よお」と声をかけたら、「ちゃんくりぃ〜」と、当時の俺の呼び名が元気よくかつウサン臭く返ってきた。立ち話をすることしばし、奴曰く、「福岡で一発当てて、東京に帰ってきた」そうだが、そんなことはどうでもいいし聞きたくもないし信じれるはずもない。そういうヤツなのだ。
 「ちゃんくり〜、なんか会社作ってC調な仕事してるらしいじゃん」。馬鹿言え、いつだって俺は真面目だ。明るい奴はすべてC調だと思うな。服装で判断するな。
 そもそも地方行きが決まった時点で”こんな会社辞めてやる”と息巻いていた奴が、一発当てて東京に戻ってきた(らしい)んだから、「素晴らしいことじゃないか」と言ってあげたら、「まぁ、俺もガキじゃないし、俺がいないと会社もダメだしさ」とまたまたウサン臭さを全開にしていたのでそろそろ帰ろうと思って、「じゃ、よいお年を」と言ったら、「えっ、もう年内中に会えないの? じゃ来年すぐに」ときた。
 おいおい、君とは10年以上も会ってなくて、もちろん俺に会う気などさらさらなかっただろうに、たまたまバッタリ会って、「よいお年を」って言葉を聞いた途端に過敏に反応して、「年内中に会えないの?」って、やっぱあんたC調でウサン臭いわ。「なんだよ〜、せっかくだから年内に会っていろいろ仕事頼もうと思ったのにさー。じゃまた連絡くれよ、俺からもするし」。そう言うと奴は『じゃぁ〜ね〜』と頭の悪そうな別れの言葉を残し、スタスタと渋谷駅方向に消えていった。
 多分、ヤツとはまた10年以上は会わないだろう。なぜなら俺は奴のケータイも知らないし名刺も持っていない。ヤツも同じである。



『メール』

 昨日の日記じゃないが、俺はほとんど携帯メールをしない。メールで思いを伝える自信がないからだ。文章にはそこそこ自信があるが、記号化した文字を使って的確に意志を伝える術をしらない。だから電話する。3分かかるメールを10秒で、しかも臨場感たっぷりに伝達できる。言葉とはやはり素晴らしい道具なのである。
 ただ直接話すのはちょっと…という場合にはメールはちょうどいいツールなのだろうな。怒りを冷静に伝えるとか、やんわりと断るとか、淡々と返事をするとか、そんなことには実にちょうどいい。どうあがいてもケータイ社会はさらに勢いを増すだろうから丸無視することもできない、だとすればケータイメールの使い方というより、メールならではの役立て方だけは習得しようと思っている。
 小泉今日子は言った。『絵文字や改行とかの使い方でその人の人格がでる。それって若い子たちの言葉文化だしコミュニケーションの進化だと思う』
 うーん、さすがキョンキョン。深いぃ話や。
 となると、そうだな、メールを言葉として使えばいいのか。そういうことなんだ。メールの中にあるものは、ちゃんとした言葉なんだな。そして口からも言葉を出して、耳で聞いて、どれがダメとかコレだけとかじゃなくて、全部を『言葉』として使えばいいんだな。なんか、ちょっと反省だな。キョンキョンありがと。




2008/12/25

『ラジオとテレビ』

2008/12/24

『サンタ』

2008/12/23

『立派な外国人』

2008/12/22

『C調なヤツ』

2008/12/19

『メール』
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