『日本の夏 その壱』

 連日の猛暑のおかげで、この夏にコテンパンにやっつけられているが、この暑さがあればこそ夏なのだとなぜか感慨深く思える毎日でもある。
 たとえば打ち水。フライパンと化したアスファルトにジャバジャバと水を注ぐ。たちのぼる夏の匂いとともにどこか冷んやりとした空気が鼻をつく。お隣さんに連られて右隣も左隣も、向かいの家でも打ち水がはじまり、辺り一帯にはちょっとした涼が流れる。
 開け放たれた玄関には元気よく風鈴が鳴り、その奥からはプロ野球中継が大音量で流れている。父さんと父さんの父さんがステテコ姿のペアルックでうちわを片手に軒先に出てきて、茹でたてのとうもろこしを婆さんにせがむ。隣ではスイカが、その隣ではアイスキャンディーがステテコのお供をして、さしずめ真夏の夕方は夕食前のデザート品評会のようである。
 ほれ、スイカ食え。ほれ、とうもろこし。アイスキャンディーもあるぞ。そして食い意地の張った少年たちはひとり漏らさずピーピーになって母さんに叱られるのである。
「日が落ちると涼しくなりますねぇ」と誰に話しかけるともなく、ばあさんがちりめんのぶかぶかのワンピースを着て軒先に顔を出す。右手にはうちわ、肩には真っ白な手ぬぐい。シミに覆われたばあさんの手の甲に浮き出た血管が頼もしい。その血管の先には少し剥げた金色の指輪が指の肉を食い込ませて照れくさそうに輝いてる。
 ばあさんには役割がある。蚊取り線香を焚くのだ。夏の昼のエンディングには西に暮れる夕日と蚊取り線香の香りがあればよい。それだけでステテコもちりめんもうちわもアイスキャンディーもとうもろこしも、すべてが主役になる。「時代」という名の真夏の一幕。美しい国にっぽんのあたりまえの情景。
 時は2008年夏。隣も近所もなくなった都会の暮らしの中で、とうもろこしやアイスキャンディーは期待できなくなったが、打ち水ならばマンションのベランダだってできる。そこに立ち上る匂いと西の彼方に沈む夕日は何百年経とうが変わらない。

 とんぼがやってきたら、もうすぐ秋だ。あれだけ暑かった夏なのに、秋を思うとなぜか寂しい。
 いくら時代が変わり環境や気温に変化があろうとも、日本人の心の中に、季節は流れているのである。
 どうしようもなく暑いけど、暑いうちに夏をいっぱい感じたい。




スタイリスト・ハルキからのお中元
Celeb de TOMATO
旨すぎる。




『郷ひろみという時代』

 郷ひろみさんと知りあって9年になる。それまでは大して興味のなかったというよりは無関心に近い存在というか、いや、実はすごく嫉妬をしていた存在だったが、インタビューをして気持ちは一変した。この人は何かを背負って生きていると強く感じたからだ。
 それは明らかに宿命であり運命である。「郷ひろみ」という誰も代役がいない存在を生きなければならないという自負を痛いほどに感じたのである。
 ひろみさんはその鮮烈なデビューゆえ、世の男たちを敵にまわした。誰かが個人的に郷ひろみに挑戦状を叩きつけたわけではないけれど、「郷ひろみ」と聞くと誰もが一方的に敵意を抱いた。戦う意志などまるでない中にある敵意。言い換えれば単純な嫉妬である。女子が騒げば騒ぐほど男たちの敵意ボルテージも上がる。当時はまだまだ「アイドル」という存在が男女間で平等に消化されていなかった。男と女。男らしさと女らしさ。そんな未成熟の表現文化しかなく、男性歌手がポップスを歌って女性がキャーキャー騒げば、それだけで女たらし、髪が長ければ男女(おとこおんな)というような解釈になってしまった男子総嫉妬時代。
 そんな時代をスタートして先頭を走ること37年。競争世界の真ん中にありながら誰とも比較せずにただ自分の居る場所だけを探し続け、そこに居続けるために努力精進する頑固なまでのボーカリスト。
 2008年コンサートツアー。そのステージに立っているのは誰かにとっては永遠のアイドル、誰かにとっては奇跡的なおじさんスター、誰かにとっては耳障りの良いポップスシンガー、誰かにとっては憧れの人生像、誰かにとっては理想の未来像。そしてそして誰かにとっては、何十年も経って、ようやく認めることができた昔の敵。そして男たちは郷ひろみのメロディーに、目を閉じ口角を緩ませ心地よく顎でリズムをとることで、自分自身の過去をも許すのである。
 与えられた曲の意味がわからず、戸惑ったり背伸びをしたりしながら歌った少年は、いくつもの経験を重ね、自らが切望していた50代の時間の中で、人々に歌の中で何かを伝えていく。聴く人たちの中で、それぞれの人生や、まだ見ぬ未来予想図とメロディが重なり合うその瞬間、郷ひろみの伝説は現在進行形で進化していくのである。
 誰もが男の子女の子。それは始まりであり永遠でもあるのだ。



『東北へ』

 盛岡へ行って来た。久しぶりの地方だ。到着後早速地場の味を探し、昼の営業を終えのれんを下げようとしている冷麺店に駆け込んだ。主人とおそらく奥さんであろう年配の女性はちょっと面倒くさそうな顔をしていたけど、「東京から来たんですが、どうしてもココの冷麺が食いたくて」と軽く芝居をかけたら、「さ、どんぞ」と入店を許可されたが、代わりに「どすてウヂの冷麺しったのさ?」と脊髄に響く質問を浴びせられ、全神経を駆使した瞬発力で「確か、前回来た時に、こちらの人が“あそこの冷麺は通の間で評判”というような話を聞いたので…」と申し訳ない気持ちながらコンパクトな嘘をついたら、「そっかそっか、うんうん」と嬉しそうにうなずいていらっしゃった。純朴な町に嘘はいかん。すみません。


 仙台から新幹線に乗って来たガタイのでかいあんちゃんは、スキンヘッドにD&Gのグラサンにヘッドフォン、同じくビッグサイズのD&Gのポロシャツ(本物だろうか?)を着て、これまたビッグサイズのエビスヤの半ズボンと派手な配色のナイキのスニーカーを履き、ゴールデンレトリバーぐらいあるリュックを掛けて威圧感バリバリで俺の隣の席に座った。通路を隔てた3人席はがら空きなのに、ちゃんと自分の切符にある指定席に腰を掛けるところが東北人らしい。
 ところがその図体のデカさは俺のナワバリを犯し、肘掛けを10センチ以上超えて俺の領域に侵入してきた。それだけではない、足もガッと開き、左足のナイキが俺の領域内で控えめにしている右足のアディダスにプレッシャーをかけている。
 だんだんムカついてきた。注意だ。よし、いくぞと気付かれないように深呼吸をしていたら、あんちゃんはおもむろにD&G(こればっかり、しかもウソっぽい)の長財布から一枚の紙を取り出し、ヘッドフォンのサウンドに揺れながらニヤニヤしだしたので、ちょっと様子を見ることにした。
 プリクラだった。しかもシート。大小さまざまな形のプリクラが一枚のシートの中で楽しそうに並んでいた。そこにはあんちゃんの彼女らしき女性が写っていて、ひとつひとつのプリクラに人差し指をあててから、その人差し指を自分のくちびるにあて、チュッとやっているのだ。俺はもう抜群に気持ち悪くなって、ナイキの侵入よりもその気持ち悪さを注意しようと軽く目線を送ったが、あんちゃんはプリクラに集中していて俺のことなど眼中にないようだった。
 プリクラを見て嬉しくなってしまったあんちゃんは、iPodのボリュームを上げ、ヘッドフォンから音が漏れてきた。青山テルマだった。そのサウンドに体をスイングさせ、ジィッジィジィジィ ジィッジィジィジィと変なタテノリで口ずさみはじめてしまった。こうなれば俺にとってはこの上ない大迷惑である。
 もう我慢できない俺は、トントンとあんちゃんの肩を叩き「すみません、肘と左足をもう少しそちらに寄せてください。お願います」と紳士的な口調で告げた。すると彼は予想どおり「あ?」と返したので、彼の「あ?」を包み込むような大きな気持ちで、「あ?ではなく、お願いします」と更に紳士な言葉を目だけ笑っていない笑顔で言ってあげたら、「わかりました。大変すみませんでした」とものすごく素直な、しかも「あ?」よりも確実に2オクターブ高い声で言うと、通路の向こうの3人席へそそくさと移動したのだった。荷物を全部3人席へ引っ越させて、すべて準備完了になったところでゆっくりと座席に腰を下ろし、もう一度俺にお辞儀をしてから、またテルマを聴きプリクラを眺めた。
 なんだ、素直でいい青年じゃないか、と少しでも怒ってしまった自分を反省しながら穏やかな気持ちに返ると、前方の扉が開き、3人組のおっさんが近寄って来た。
 予想は的中し、3人組はテルマの横で立ち止り手元の切符を見返した。
「俺?」というキョトンとした表情でテルマは自分の顔に指を指し、そして1分後にすべての荷物を持ってもう一度俺の横に引っ越して来た。
 こうなればもう馴染みのようなものである。俺の表情が「おかえり」という感じだったのだろうか、テルマは少し甘える感じで「すみません、すみません」とペコペコしながら隣に座り、またプリクラを眺めてテルマの続きを聴きだした。
 それからのテルマはお行儀良く境界線の中に肘と左足を収めてくれたが、ちょっとしたタテノリだけはやめてくれなかった。


 ちなみに冷麺、すごくおいしかった。
 丁寧にお礼をいったら、俺が店を出て見えなくなるまで年配の女性が頭を下げていらした。
 東北人紀行。とても良かった。




カルビ冷麺きゅうり抜き。




『似てる』

 世の中には自分に似ている人が3人いると言う。俺は高校時代、柳沢慎吾に似ていると言われ、30半ばにはナイナイの岡村に似ていると言われ、そして今でもネバーエンディングストーリーに出てくるファルコンに似ていると言われ続けている。
 似ているからというわけではないが、柳沢慎吾と岡村隆史のことをすごく尊敬していて、誰かと彼らについて話す時にはかならず「さん」付けをしている。彼らの笑いにはリズム感とスピード感に溢れ、ものすごい瞬発力も秘めている。独特のテンションで進行するその笑いはアスリートそのもので、運動神経の良さが存分に伝わってくるのだ。ファルコンのことは別に尊敬はしていないが、飛行機よりは夢のある乗り物だなと常々思っていたし、友だちになってもいいかなぐらいの気持ちはある。
 ある日の午後。打ち合わせのため待ち合わせた六本木のカフェ。俺の目の前にはユーミンがいた。
「あれっ、ユーミン、じゃないよね、それにしても似てますね、ユーミンに。松任谷じゃなくて荒井の頃」
 図らずも彼女はソーダ水を飲んでいて、そのグラスには貨物船が映っているように思えるほどのユーミンっぷりに本気で驚いてしまった。
 彼女は飛ぶ鳥を落とす勢いのカメラマン下村一喜氏のアシスタントで、この秋には独立をされるそうである。師匠のような素晴らしい写真を撮れるようにどうか頑張っていただきたい。
 彼女の出現により打ち合わせは約8分で終了し、ユーミン好きの下村氏とユーミン似の彼女とユーミンについて長々と語っていたら、辺りは夕焼けに染まっていた。
 しばらくユーミンに会っていないから嬉しかった。




このヒトです。




『水をやる』

 元来、人はやさしい。やさしく健やかで豊かな未来に輝く瞳をそえて生きる生き物。
 ところがほんのちょっとした心の乱れで罪を犯し自分を壊してしまう。一度、そうなってしまうとなかなか健やかで豊かな自分に戻れないし、人もそうさせない。罪は人生をダメにするけれど、悪は時に必要とされる。現に悪いことをしまくっているのに社会的には立派な人がゴマンといる。戦争は何処から見ても罪の塊なのに、「必要悪」とされることも多く、なかにはそれが正義だと胸を張る殺し屋もいる。
 人を殺すことに快感があるかどうかは知らないが、少なくとも人に殺されることに快楽を抱く者などいない。人は人を殺してはならないし、人が人に殺されてもならない。ちょっとした心の乱れはやさしい気持ちがあれば元通りになる。花に水をやるように、なんてことない生命への想いが人の心を豊かにする。花に注いだ水は自分の心にも注がれているのです。
 乾くな人間。花に、そして自分に水をやれ。
 人は元来、やさしい生き物なのだから。




水を。





2008/07/23

『日本の夏 その壱』

2008/07/22

『郷ひろみという時代』

2008/07/18

『東北へ』

2008/07/17

『似てる』

2008/07/16

『水をやる』
このサイトに掲載のイラスト
写真・文章の無断転載を禁じます

Copyright © 2001-2010 MaroonBrand