『ツアーパンフ制作の裏側』 

 郷ひろみさんのツアーパンフを制作するにあたってはかなり悩んだ。アルバムタイトルが『place to be』ツアータイトルが『THE PLACE TO BE』。どちらも“僕がいる場所”というような意味である。
 それをパンフにする。さてどうしよう。スタッフに相談する前に妄想するのが僕のパターンである。まずは画を妄想する。その画にテーマとどう関連づけようかと妄想する。いくつもの妄想を経てロケーションが浮かび上がる。そこで郷ひろみをどう見せようか。郷ひろみの「今」を一発で言い当てられるコピーはなにかを妄想する。言葉を探すときの妄想にはイメージが必要だ。そのために何度も何度もCDを聴く。ニューアルバムだけではなく、30年前のも10年前のも聴く。そしてまた最新のを聴く。すると、音の流れの中で郷ひろみの進化に気づき、いつしか音が消えておぼろげながら文章が浮き上がってくるのである。
 これがきっと郷ひろみの『PLACE TO BE』。確信はないけれど自分でそう思うことができた瞬間、パンフ構成のほとんどが完成する。
 ただ今回はひとつだけ、どうしてもひろみさんのパンフを制作するにあたって撮りたいカットがあった。知り合いから紹介された84歳のタップダンサーとどうしても絡ませたかったのである。その旨を伝えたところ老人は快く引き受けてくれた。
 撮影当日、老人は純白のスーツと白い帽子と白いステッキとコンビのシューズと花柄のオッドベストで現れた。興奮が抑えられないのか、郷ひろみの前でタップを踏んだ。それを見て郷ひろみは拍手を送った。老人は帽子を取り、郷ひろみに一礼した。郷ひろみが拍手をしながら老人のもとへ歩み寄り、握手をした。そしてふたりは写真を撮った。郷ひろみに肩を抱かれて老人は少し照れた。
「84年の人生の中で決して忘れることが出来ない出来事」と老人は語った。写真のふたりは健やかに笑っている。パンフレットに掲載される写真ではない。世界で一枚しかない老人の宝物である。
 パンフレット中のふたりには『PLACE TO BE』がある。老人の今と郷ひろみの今。目まぐるしく移り変わる時間の中で、それぞれが存在する理由を言葉ではなく被写体として映し出されたのである。
 素敵な人と仕事をすると素敵なことが必ず起こる。きっと僕にとっても忘れられない仕事になるだろう。



『ダメカフェ』

 事務所の近くにカフェメシ屋がオープンしたので行ってみた。僕は例によってカレーを頼んだ。そこそこ美味しかったし店内も中目黒にしては広々としていて開放感もある…はずなのだが、なんだか重苦しくてかつむさ苦しい雰囲気が漂っていた。
 なんでだ?答えを発見した。暗い、とにかく暗いのだ。暗いがCRYになって…なにうまいこと言ってんだという軽いツッコミを入れつつ、どう暗かったかを説明しよう。
 顔。顔が悪すぎるのだ。造形的にNGということではない。ブスでもゲスでもいいが、そういうことではなくとにかく顔が暗いのだ。とても客商売をしている人の顔ではないのである。あの顔は究極に不安に陥ったときの顔だ。ものすごくコウンをしたくて、必死でガマンして、あと少しで家だと軽くホッとしたときに、薄~くポロッと出てしまったときのような喪失感が浮き彫りになっている。そんな顔は人を不安にさせる。このカレーを食ったらひょっとしたら不幸になるんじゃないかという不安がよぎる。そんな顔がダメなのだ。
 しかもその顔がいやな汗をかきすぎている。汗は一生懸命さの表れか、あるいは不安さを象徴するかのどちらかだ。水を運んでくる時に汗。注文を聞く時に汗。カレーを運んでくる時に汗。汗にまみれるのはグラウンドだけでいい。カフェメシ屋が大量の汗を見せたら確実にカレーにブレンドされていると思われるに違いない。塩っぱいと感じたら“ん、汗?”と思われてしまう。店員が相対的にブーデなのは仕方ないが、だとしても飲食店において滝のような汗が流れる顔はダメだ。
 そしてその顔には死相が表れている。僕がカレーを食ったのは雨の午後1時。仲の良い友人と一緒だったわけだが、店内には僕たちふたりともう2人ほどがチラホラという状況で、客は計4人。対してスタッフは6人。コスチュームは黒ずくめ顔は暗ずくめ。繁盛していない店内が彼らの未来を閉ざし、お通夜にきたような顔で亡霊のように立っているだけなのだ。その計り知れない暗い眼差しが僕のカレー皿に注がれるのである。
 さっきカレーに汗がブレンドされていると書いたが、今度は不幸がブレンドされているような感じである。もうこのカフェでカレーを食うこと自体がたたりみたいなのである。
 そして僕は決断した。「だったらもう行かなきゃいいじゃん!」と。
 またひとつ貴重な体験をしたとともに、日記ネタが増えて良かった。



『深夜のサラリーマン』

 深夜に帰宅したらマンションのエントランス付近の階段で背広姿のおじさんがうなだれていた。おじさんといっても俺と同じぐらい、いや年下かも知れない。
 おじさん、背中を丸めて足をビヨーンと伸ばして鞄なんかも放っぽらかしていた。
 格好からしておそらく彼はサラリーマンに違いないわけで、年齢的なものから推察すると課長から部長クラス、スーツの色はアイボリーとグレーの中間色で色付きのシャツを着てノーネクタイだったので、めちゃめちゃお堅い企業というわけでもないだろう。たぶんサービス業、デパートとか飲食業、アパレル関係かも知れない。しかも営業。社内での人間関係のみならずお客様との関係にも気を遣いまくる職業と見た。
 なにがあったのかはしらないし、なにもなかったのかもしれないが、頭のてっぺんからつまさきまでダラーンとなった姿を目の当たりにするとこっちまでなんだか切なくなってきた。
 きっとマンションの玄関を抜ける前になにかを切り替えたかったのだろう。いつもは深呼吸ひとつでモードを切り替えらるのに、きっとそれができなかったんだ。深呼吸も背伸びもストレッチもしたけれど、心の中のどんより感は振り払えず、それを持参して自宅玄関の扉を開けることができなかったのだろう。
 悪いと思ったけど、斜め後ろからずっと見てしまった。ふーっと溜め息ひとつ、ふたつ、またひとつ。ひとつひとつの溜め息は気持ちを切り替えるためのギアチェンジだ。扉の向こうに待つ家族のためにも溜め息をついてヘンなもん振り払って、なにごともなかったように「ただいま」ととぼけるのである。それがサラリーマンという戦士でありおとうさんなのだ。
 もちろんおとうさんの「ただいま」に反応する声などなく、返答があったとしてもそれは飼い犬のキャンディちゃんのものである。深夜のキャンディちゃんの興奮する声に熟睡していた奥さんが、「うるさいっ」と吠え、おとうさんはトイプードルのキャンディちゃんよりも小さくなる。
 この扉を出て、そしてこの扉を開けて戻ってくるまでの間にどんなに辛い社会があるかを家族は知らないし、おとうさんも語らない。いや、ほんとうは喋りたいのだが、喋ったところで、「しょーがないでしょ、じゃ辞める?」となるからだ。さらに「そんな意気地ないこと言ってないで、たまには海外旅行にでも連れてきなさいよ」と上から目線で核爆弾並みの攻撃にあうのがオチである。

 嗚呼、サラリーマン劇場!日本中のおとうさん、玄関の扉の向こうにはそれはそれは大変な時間と空間が待っていることでしょう。けれど、そんな中に毎日飛び込んでいくあなたの姿こそがあなたの大切な誰かと何かを支えているのです。頑張ってください、上手くいくこともいかないことも含めて全部。
 
 だから、見上げてごらん夜の星を。そこに星がなくたっていいから。ダラーンとして、ふーっと溜め息ついて、ほんの数分だけでいいから、空見上げながら「おれ、がんばってるよな」って。
 サラリーマン劇場の主役は、おとうさん、あなたしかいないのだから。



『秋葉原の悲しい事件』

 秋葉原で事件を起こした男は「世の中がいやになった」と嘆き犯行に及んだらしいが、では彼にとって世の中のなにが良くてなにがイヤなのだろう。たぶん誰もがイヤなことだらけで生きているに違いないと思うのだけれど、イヤなことと人を殺すことがどう繋がるのかが理解できない。
 イヤなことがあって耐えられなくなったとき、せめてもの気分転換が殺人なのだろうか?人を殺めることはイヤなことではないのだろうか。人を殺したあとの自分がもっとイヤになることを想像できないのだろうか。誰かに殺してほしいと願うのならまだしも、誰かを殺すというところに転換することに問題があるのだ。
 イヤなことがあるから良いことが訪れるわけで、ひょっとしたらイヤなことが起きなければ良いことなんてこの世には存在しないのかもしれない。良いことばかりを経験していたらイヤなことの辛さや哀しさは分らないだろうし、他人ごとになってしまうかもしれないが、イヤなことを知った人にとっては、ほんのちょっとしたことが良いことになることだってある。そしてちょっとした良いことは希望をくれる。
 失恋した日の夜はこの世の終わりかと思うほどに苦しくて、ひょっとしたら世界で一番辛いのは自分なんじゃないかと錯覚するけれど、翌朝カーテンを開け眩しい日差しが飛び込んできた瞬間に、ほんの一瞬だけだけど苦しみから解放されるように、人の気持ちや思いは時間が少しずつ解決してくれるものだ。
 現にフラれて死にたいと泣き叫ぶ奴に限って、数週間後には違う誰かに恋をしているものである。
 傷みを知ったからからこそ誰かの声が優しく木霊し、今まで気付かなかった喜びに包まれる。それは何も他人から与えられるものだけではなく、些細な喜びに気づいた自分への喜びでもある。
 人間はイヤなことをするために生きているのではい。イヤなことの先に良いことがあることを知っているからこそイヤな瞬間を生きていけるのだ。
 人間をナメるな、人生をナメるな、生まれて来たからには、死ぬまでちゃんと生きろ!すくなくとも人の命には手を出すな!もういいかげんやめてくれ!



『ヒデのサッカー』

 ヒデのサッカーを観たのはどれぐらいぶりだろう。たとえそれが花試合であっても俺は嬉しかった。19歳で知り合った彼が今では30を過ぎて、自分がやってきたサッカーを通してなにかを呼びかけている。できることとできそうなこととできそうにないことの違いは紙一重で、だけどなにごとにも腰を上げてみないことには始まらないことを彼は知っている。彼の呼びかけをパフォーマンス視する声がないわけではないが、じゃ誰がやる?誰がやった? ヒデは地球環境にメッセージするためにサッカーをしてきたわけではないだろうが、サッカーを通して世界を知り、そしてこのような機会を持ったことが素晴らしいことであり、そこに敬意を感じずにはいられないのだ。
 ヘソ曲がりな人は勝手に思えばいい。キレイごとと言いたい奴がいたとしてもそれは自由だ。
 大切なことは行動だ。誰かがキレイごとと罵ったことを、本気で実現することに価値があるのだ。
 サッカーはそんなことにだって役立つことができるんだということを、今までこの国で誰が実践してきた?だから価値があり、意味があるのだ。
 ほんの10数年前まで地方の高校で純粋にサッカーボールを蹴っていた少年が、今では違う意味と価値観を抱いてサッカーボールを通してメッセージする。ひたむきな努力でサッカーで世界のトップクラスにまで駆け上がった少年が、サッカー界を引退してもサッカーを通してなにかを起こそうとしている。
 できそうにないと思ったかもしれないし、最初からできると確信していたかもしれないが、そんなことは大した問題ではない。彼は現に行動を起こしたのだ。それがなによりも素晴らしいことなのだ。
 ヒデがグラウンドで笑いながらサッカーをしている姿を観たのもはじめてだった。
 いろんな意味でスポーツの可能性を感じさせてくれた一日だった。




2008/06/14

『ツアーパンフ制作の裏側』 

2008/06/13

『ダメカフェ』

2008/06/11

『深夜のサラリーマン』

2008/06/10

『秋葉原の悲しい事件』

2008/06/09

『ヒデのサッカー』
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