『ごはんの食べ方』

 礼儀とか作法とかいうのは最低限のことさえクリアできていればいいと思っている。箸の持ち方とか食事の仕方とかを見て、あれこれ言いたがる人はいるけれど、それはそれで仕方ないと思っている。親のしつけが悪いとか単に行儀が悪いとか理由はあるにせよ、それを気にしすぎて食事が喉を通らなくなるよりは少々箸の持ち方がまずくても食卓に肘をついて食べても見過ごしてやればいい。
 同じ飲食店でそんな人を見て気になって料理の味がわからなくなってしまう人がいるが、そういう人は本当に気の毒な人であり哀しい人だ。誰もが違う環境で育ってきたのだということが分れば、箸や肘云々はあって当然。しかも誰に迷惑かけるわけでもなく、言うなれば箸の持ち方が間違っていたとしても人間的に悪いなんてことはないわけで、つまりそれを気にする人の意識の問題なのだ。まして箸の持ち方が悪いということでダメ人間のレッテルを張られたり、育ちが悪いと烙印を押されたりするのは理不尽極まりない。なんでもかんでも自分を基準にすることは愚かなことなのである。
 だから僕は気にならないし気にもしない。とくどき説教臭く、箸ってこう持つんだよと言ったことは何度もあるけれど、最終的には“まぁ食べ易い持ち方がいちばんだよな”というところで落ち着く。早い話が、そんなことはそうだっていいのである。
 ところがご飯の食べ方が美しい人をみると、素敵だなと思う。座り方から茶碗の持ち方から箸を口に運ぶ動きから、一連の動作が小川せせらぎのように涼しくて美しいのである。
 ある芸能プロダクションのマネジャーが連れて来た新人女優の箸を持つ姿はあまりに美しく、なぜか僕は 彼女の後ろにはおばあちゃんの存在を感じた。聞けばおばあちゃんっ子だったというではないか。
 きっとおばあちゃんはこう教えたのだろう。箸の持ち方もごはんの食べ方も何でも自由。けれど、こうして食べたらごはんはもっともっと美味しく食べれるんだよ、と。おばあちゃんは箸の持ち方を教えるよりも、どうしたらごはんが美味しく食べられるかを教えたかったのではないだろうか。
 もちろん僕の妄想であるが、おなじ作法を教えるにしても、こんなに柔らかで温かいストーリーをつくるだけでいろんなものがぐるりと変わる。
 単にパフォーナンスとして良い悪いを振り分けるのは簡単だが、どうしてそれが良いか、もう少しこうするともっと良くなるんだよという部分を視せてあげないと、本当に正しいことは人には伝えられない。
 そして僕はと言えば、美しい姿を見るとごはんがより美味しくなるんだということを彼女に教えられた。



『パソコンの中のみかん青年』

 ちょっと前までこのサイトにはBBS機能があり、知らない人たちがこのサイトでいろんな話をしていた。それをごくごく客観的に見ていて、わずかな文章量の中にある知らない誰かの日常を勝手に想像したものだ。
 誰かが書いたコメントに誰かがコメントを寄せて、それを見た誰かがそこに参加して、いつしか僕のパソコンはちょっとした寄り合い場となった。
 お陰さまで心ないコメントを寄稿する人はほとんどいなくて、深夜にコメントを削除するような面倒もなかった。過去のことながらほんとうにありがたい人たちに参加していただき感謝している。
 文章というのは想像力を働かせ、わずか一文、たった一行だけでも、その文字の中にトリップすることができる。小説とかコラムとか企画めいたものではなく、BBSのような、思いついたままを書いたものの中にこそイメージを膨らませる力がある場合がある。
 3〜4年ぐらい前だろうか、確か四国の田舎町で暮らす青年がBBSに書き込んでくれたことが今でも頭の中を巡ることがある。
 たしか僕が『ROCKとは』みたいなことを偉そうに日記に書いたと思うんだけど、その翌日に彼が書いてくれた文章がとても嬉しかった。
 文面は「僕は田舎でみかんを作っています。毎日同じ作業でおもしろくないこともあるけれど、日記を見て、そうか、そうだよな、ってうなずいて納得して、よし、日本一のみかんを作れるようになってやる」というようなものでした。さらに、「自分のみかんに自信が持てるようになったら、いつか食べてください」とあった。
 すごく感動してBBSでコメントを返したような気がするが、それも過去のことなので定かではない。
 人の文章に心が動き、けれどそれが誰でどんな顔でどんな生き方をしているかは知らず、結局知っているのはその誰かが書いたわずかな文章と、それを見た自分の気持ちだけ。
 けれど、それが尊い。文章を描いた主を捜すのではなく、文章の中に自分の身を置くことが素敵なことで、そうすることで自分にある「今」と「未来」を見つめることができればさらに素晴らしいのである。
 彼は今もきっとみかんを一生懸命に作っているんだろう。昨年、初めて乗った松山から今治に向う海岸線を走る電車。瀬戸内の海と反対側にある山にはどこもがみかん畑になっていて、それを見ながら、“そういえば”と彼の言葉を思い出した。
 人が人と文章でつながって、けれどきっと会うことなど決してなく、街ですれ違ったとしても互いに気付かないままなのだろう。それでいいのだ。それがいいのだ。



『郷ひろみという運命』

 人にはそれぞれ与えられた運命がある。どうあがいてもそこから離れることのできない、生まれながらの決まり事により人生は進行していくものである。
 誰かと出逢い誰かと恋に堕ち、誰かを傷つけて誰かと逃避する。どれもが運命。
 そんなドラマチックな展開、私には経験ないわよと言うあなただって、星の数だけ運命を背負って生きているのです。どうしようもないダンナと結婚したのも運命だし、その息子や娘が輪をかけてどうしようもない人間に育ってしまうのも運命で、予想に反して次男が現役で東大に合格してエリート官僚になるのも運命だし、その次男がすいすいと出世したのにセクハラで懲戒解雇されるのも運命。
 運命とは運と不運を行き来する自分勝手なあまのじゃく。哀しみだけを背負わされる割の合わない運命もあるだろうが、そもそもそれが運命というものだ。
 そして人は思いどおりにならない人生に嘆き、それを誰かのせいにする。

 ここにひとつの運命があります。郷ひろみという運命。
 彼がそれを望んだのかそれとも背負わされたのかは知る由もないが、彼はその運命に逆らうことなくを毎日を生きている。
 観る側と観られる側には大きな解釈の開きがあり、誰かが彼を羨ましいと思うことに対して、彼自身はそこに苦悩を持ち続けているかもしれない。かといって、それをばっさり否定してしまったら、運命を背負わされた自分自身を否定することになり、不安や悩みや苦痛をひとつづつ乗り越えながら彼は37年目の郷ひろみを生きている。
 運命を背負う以上、それとどう向き合いどう享け入れるか。その問答が郷ひろみの生き方であり、その答えはステージの上にある。彼のステージが単なるショウタイムとしてではなく、誰もがそれを人生のヒントと捉える事ができたとしたら、彼がそこに立つ意味は限りなく大きな意味を持つ。

 37年間、その場所に立ち続けているということ。
 37年間、誰かがその場所に向い彼の歌を聴くということ。
 長い時間をかけ年輪を刻んだ運命は人の心を揺さぶる。
 
 郷ひろみに感謝することも、きっと僕の運命なのだろう。



『あめ』

 大好きな5月が終わってしまう。新緑のあの匂い…クレイジー剣さん曰く「精子の匂い」。季節の中で躍動する生命の大合唱を見事に言い当てた名言である。それが6月の足音が近づくとともに、テノールは2オクターブほどトーンを下げ、緑々しく生命力に満ちた葉や草はそのステージを紫陽花にゆずる準備をはじめている。
 6月。雨。水たまり。歪む水面に映る顔こそが真の自分である。この季節に大切なことは雨をしっかりと受けとめ見つめることだ。降り続く雨にうんざりしながら、晴れた日の喜びと儚さを胸一杯に受け入れることだ。雨が上がった後に思わずこぼれる微かな笑み、口角がちょこんと上がっただけの、そんなちっぽけな喜びの大切さに感動しながらこの季節を過ごそう。
 ぴちぴち ちゃぷちゃぷ…あとには「らんらんらん」とスキップできるといいですな。



『手書きからパソコンへ』 

 2年前までは手書きで日記を書いていたんだよな。昔の日記を読み返したわけではないが、手書きというのは本当にいい。感情によって筆圧が微妙に変化するところが人間らしくてたまらない。長文になると手首と指が疲れてきて、書きたいことは山ほどあるのに急にまとめようとする文章になって、“もう書き飽きた”と文字が叫んでいるところも愉快である。
 文字は人を表すとは言わないが、確かに人を感じさせてはくれる。書道とはちょと違う「手書き」きという様式美。これほど簡単な自己表現方法がありながら、今では誰もが同じ文字というか「フォント」で文章をつくり連絡をとりあうことを当たり前としている。
 残念ながらフォントから感じられる心情や間(ま)は希薄だ。言い換えるならばフォントに表情などない。
 そんな立派なことを言いつつ俺もパソコンに向ってるじゃん。まったく、毎日偉そうに言ってるわりには、灯台下暗しなのだ。
 勝手な言い分ですが、日記を打つのではなく書く気持ちだけは持ち続けます。




2008/06/06

『ごはんの食べ方』

2008/06/05

『パソコンの中のみかん青年』

2008/06/02

『郷ひろみという運命』

2008/05/30

『あめ』

2008/05/29

『手書きからパソコンへ』 
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