『この時期に思う』

 この時期のつきものといっては何だが、ほぼ2日に一度のペースで撮影が行われている。メディアは春に動く為、まだ道端に雪が残る頃から春爛漫的な撮影をこなし、菜の花が咲き、桜のつぼみが開く頃には夏物の撮影をすませなければならないのである。
 こんな時期にはグラビア撮影も満開となり、インタビューとかファッションポートレイトなんかもこぞって行われ、そんなんがなんだかんだで新緑の頃まで繰り返される。
 季節というものは正直だ。熊が冬眠から覚めるように、雪解けとともに生命はぐんぐんと息を吹き返す。縮こまっていた筋肉を目一杯に伸ばして血管内に存分に酸素を運搬してやるのである。いわゆるストレッチの原理がヒトの細胞を甦らせる。穴から出てきた熊がアクビをして背伸びをした瞬間にハンターへと変貌するように、ヒトも欲求がぐんぐんと燃え上がってくるのである。ゆえに春には理性が本能が抑えきれずキチガイじみた事件が頻発する。
 この週末にも悲惨な事件が起きた。目を覆いたくなるような惨劇だ。どうした日本人?
 何かがやりたくて、だけど何をどうしたらできるのかわからない奴が多過ぎる。そんなやつらは何もしないくせに、何も出来ないのだとネガな自己を一方的に確立し、その混沌とした欲求をとんでもない方向へと向ける。それが引き金となり事件を起こし、哀しみと虚しさを誘う。
 何もしないのなら、何もしようとしないのならば、せめて優しくなれ。人にではなくまず自分にだ。甘やかすのではない。どうしたら今よりも良い状況を獲得できるのかを、嘘や刃物を使わずに考えろ。落ちているゴミや犬のウンコを拾うだけでもいい。この星に暮らす自分のために何かをして、1ミリでもいいから豊かになれ。そこに報酬はないが、人間としては立派な仕事だ。
 春。欲求と向き合う季節。忙しくても暇でも、自分を見失うようでは、夏は来ない。
 俺も含めて、頑張れニッポン!




狂い咲くな、ちゃんと咲け。




『深夜のコンビニ』

 夜中に腹が減ったので何か食べに出ようと思ったが、そのパターンだとついつい大食いしてしまい食後にすかさず後悔してしまうのでコンビニに入った。
 僕はコンビニという場所があまり好きではないので品揃えとかレイアウトみたいなものはまったく知らないし店鋪ごとの特徴なんかもさっぱりわからないけど、ただなんとなく、深夜のコンビニにはホッとした。なんとなくだけど、ちょっとだけ温もるような気がした。知り合いがいるわけでもなく、店員と会話するわけでもなく、特別何かを買う目的があるわけでもないが、ほんと、なんとなくホッとしたのが不思議でたまらない。
 コンビニに集う人は皆、そんな「なんとなく」を求めてやってくるのだろうか?本当は立ち読みや物色なんかどうだってよくて、蛍光灯が煌煌とした明るい空間の中で知らない誰かと一緒にいられることだけを求めて来るのかも知れない。そういうことがなんとなく嬉しかったりホッとしたりするのではないだろうか。
 そんなとこを考えつつ、東京のような寂しくて厳しい場所には、こういう場所も必要なんだろうなぁとしんみり思ったのでありました。
 結局僕はチキンラーメンと生卵を買って、深夜の事務所で即席ラーメン(ネギ入り)を作って食べたのですが、これにもまたホッとしたのであります。



『世代交代?』

 最近は撮影もフグさんがディレクションを仕切り、僕は事務所でお留守番ということが多い。少し前はこういう展開を望んでいたが、いざそうなるとちょっと年寄りになった感じで寂しい。事務所にかかってくる電話もみんなが忙しくしていて僕が誰かに取り次ぐパターンが多くなり、「あ、クリさんですか、ご無沙汰しています。元気ですか?…そーですか、なるほどなるほど…で、○○さんおみえですか?」というパターンがほとんど。
 なので僕はずーっと事務所で掃除をしたり眠っているお酒の整理をしたり壊れたオーディオを直したり(直してもらってるんだけど)しています。
 もっとも外に出ればまだまだ花粉が僕を苦しめるので、こうして家事みたいなことをしているのも悪くはないと思ってる。
 人は育つもんだね。目をかけすぎてもいかん。そこそこ放っておいて、“ほんとこの人、なんにもしてくれないんだな”とボヤかせるぐらいが一番伸びる。手取り足取りなんてもってのほか。愛情と甘やかしは別問題。確信犯的な放置プレイによる責任転嫁も慣れれば教育だ。“もう、黙っててください、僕が(わたしが)やりますから”となれば本望なのだ。
 時代はね、そういうことなんですよ。教えた教わったではなくて、ちょっと古いんじゃないの?と思う人たちの世代が、時代の流れを読んで前の時代の人や空気を超えていく。深さや濃さや広がりは二の次で良い。そこで必要なのは感覚である。時代の中で、自分たちの感覚の中でやればいい。多少食い違ってもかまわないし、ちょっと古いものが必要となれば僕らのところに相談に来てくれれば良い。頑固なまでに自分たちの時代とそこに映される価値観を上目線で押し付けてたらみんな揃って取り残される。
 今日、やることは企画書ふたつ書いて、あとは机の上の整理。みんなは明日と来週3本ある撮影の打ち合わせでとても忙しそう。なんか漲ってる感じがして頼もしいわ。
 とかなんとかいっちゃってまだまだ俺の時代。ナメんなよ、バカ!



『「田舎」という響き』

 気がつけば日記には田舎のことばかり書いている。なんでだろ?こっちの生活の方がはるかに長いのに、なにかを自由に書こうと思ったら出てくるのは田舎のことばかりだ。こういうことが“歳をとった”ということなのだろうか。
 田舎にいた頃。それはどれもが未完成で未熟で、どれもが確信のない、けれども漠然とした夢だけはあった時間。今もそれなりに希望や目標はあるけれど、あの頃思い描いていた漠然とした無謀なモノとは明らかに違う、計算できる確実な夢。そう考えるとちょっと哀しいしつまんない。それが現実、それが大人。
 僕は故郷のことを「田舎」というが、地元のやつらには田舎意識はないらしくて、日記に度々「田舎」と書いていると本気で抗議の電話が入る。すまん。
 そこでと言ってはなんだが、田舎(懲りずに書くけど)のみなさんにわかってもらいたいことがある。
 僕らが東京で「田舎」というフレーズを使う時は、生まれ育った場所を誇りに思っているということに他ならないのです。上京して間もない頃は決して触れたくなかった「田舎」という単語が、今では可愛くてありがたくて仕方ない心の証明のようなものであるということをご理解いただきたい。それはきっと、若い頃に漠然と抱いた夢から醒めて、今の自分は昔からの延長線上にいるに過ぎないのだという自負から生まれる素直な感覚なんだと思う。
 東京で一旗揚げてやる、から、自分なりに東京で頑張ってみる、へ。そして今では、なんとか東京にしがみついてやってるへと、僕の中で随分と「東京」は変わった。
 変わらないのは田舎だけである。
 パソコンだのケータイだのの普及で、田舎のともだちと簡単に連絡がとれるようになって、瞬時にして田舎の情報が入ってくる。あいつがどうしたこいつは何したって、メールの中では高校時代の放課後のようなことになっている。
 どれもこれもありがたい。こう思えることもずっと田舎を離れているからなのだろう。
 そして田舎のことを書くと、なんとなくホッとする僕もやっぱり田舎者なのだ。




鼻に詰める綿だそうです。




『残念な話』

 地元の同級生が新聞に載ったらしい。もちろんロクでもないことで。仲が良かったやつの中ではふたりめだ。もうひとりの奴は今ではしっかり更正していると聞いている。
 そいつはあるとき壊れた。自分が壊れてゆくことを薄々感じていたのだろうが、逆らうことなく流されて行った。人生にはいろんな苦難やつまずきがある。そこから抜け出すために頑張ったことが裏目に出て、どん底に落ちることもある。そんな時は誰もが自分を世界中で一番不幸に思う。思えば思うほど失意が強くなってやりきれなくなる。未来なんて無いと思う。生きてたって仕方ないと思う。本気で死ぬ奴もいる。
 けれどそう思った奴の大半が生きている。死ぬことだけは拒むのである。
 さて、どう生きる?
 ひとつだけ言えることがあるとするならば、生きていればいつだってやり直すことできるということだ。
 誰だってそんなに楽じゃない。楽じゃないから頑張るんだ。
 頑張るということはあきらめないということだ。
 もういっかい這い上がってこい。









2008/03/25

『この時期に思う』

2008/03/21

『深夜のコンビニ』

2008/03/19

『世代交代?』

2008/03/18

『「田舎」という響き』

2008/03/17

『残念な話』
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