『今こそ朝青龍』

 朝青龍は毎日どんな気持ちで土俵に立っているんだろう?
 凄い勢いで逆風が吹いていることをどう思っているのだろう?
 普通ならこれぐらい世論の風当たりが強いとくじけてしまうだろうに、
 彼はその風潮にキバを向くようにヒール役に徹している。
 内館牧子もやくみつるも、ちょっと計算外だったのではないだろうか?
 彼がもっとボロボロに砕けてしまうと思ったんじゃないだろうか?
 土俵から遠ざかっていた不安定な朝青龍をピンポイントで見ていただけで、
 彼がどれだけ土俵に飢えていたかを見抜けていなかったんじゃないだろうか?
 評論家とかなんとか委員会なんてものはすごく無責任なもので、
 人の処罰やバッシングに関しては雄弁だけど、
 予想に反してバッシングの対象となった者が活躍をすると、
「よく奮起してくれました」の一言で片付けてしまう。しかも陰で温かく見守っていたように。
 僕は朝青龍事件に関しては、もちろん悪いことだと思う。
 相撲を冒涜するとかいうことではなく、「それじゃ超一流じゃないだろ」っていう意味で。
 そういう意味では、横綱はただ勝てばいいというだけではいけないということにも頷ける。
 だけど、負け越ししそうな横綱をむりやり休場させたりすることが
 相撲界のプライド存続に繋がることではない。
 かつて大乃国という横綱がいた。今ではスイーツ大王のあの人である。
 彼は横綱史上、初めて負け越した男であり、千代の富士の54連勝を止めた男でもある。
 彼のことを記憶している人は、きっと彼を大横綱とは呼ばない。
 だけどもっとも相撲取りらしい横綱だったと僕は思っている。
 彼は負け越しを怖れて休場するのではなく、協会や師匠の助言を振り払って土俵に懸けたのである。 
 横綱として。相撲取りとして。男として。仕事として。人間として。
 結果として彼は「負け越し横綱」という負の伝説を作った。
 全身全霊、命懸けの負け越しである。
 本人以外は決して知る事の出来ない苦悩だろうが、僕は本当に立派に土俵を務めた人だと思う。
 朝青龍が以前よりも強くなったかどうかはわからないが、
 前よりももっと本気で真剣な相撲取りになろうという姿勢は伝わってくる気がする。
 特段好きじゃないので優勝して欲しいなんてこれっぽっちも思っていないけど、
 彼が土俵にいると、相撲が引き締まる。
 彼がいることで、他の力士が強くなる。
 彼が憎まれることで、相撲界が盛り上がり、白鵬人気が益々上がるけれど、
 そんなことがいろいろあって、やがて彼の相撲は深くなり、そしてもっと強くなるような気がする。
 あんなにイキがった顔をしているけれど、彼は自分の中で精一杯戦っているのだ。
 土俵の中も外も、すべての空気と戦っている。
 そんな彼のギリギリを知った上で、残り6番の初場所を見てあげようではないか。
 少なくとも彼は、相撲以外で言い訳する気などないのだから。




のこった!のこった!




『紹介』

 “人を紹介して”と頼まれたら、お人好しと思われるぐらい易々と人を紹介してきた。頼まれたら断れない性格と勝手に思ってる自分と、断ったら人をがっかりさせるという、これまた自分勝手な思いが僕の中でできあがっていて、それから逃れられずにほんとうにすいすいと人に人を紹介してきた。
 ところが、僕に人を紹介してくれと頼んだ人と、その人に紹介した人が、なんだか変なことになっている。双方から“ちょっと、ちょっと”と、ザ・たっちみたいな言葉をもらっている。
 なにがあったのかは知らないけれど、良かれと思ってしたことが裏目にでていることは確実だ。今更そこに僕が介在するのはどうかと思うが、少なくとも僕がいなければふたりは出会うこともなく、まして“ちょっと、ちょっと”な関係にもなっていないことには違いないのだから、丸無視することもできない。
 そんな現実を知ると僕は激しく落ち込むとともに、自己嫌悪にも陥り、こんな質問を自分に浴びせるのである。
 ひょっとしたら僕はその人のためではなく、自分に酔いしれるために人を紹介したのではないか?
 誰かを紹介できない自分を、心のどこかで格好悪いと思っているのではないか?
 心の底から適任だと思っていなくても、とりあえず的に誰かを紹介していないか?
 誰かを紹介したら、それで終わりと思っていないか?

 僕の尊敬する先輩が言っていたことを思い出す。
「誰かを紹介するからには、どんなことがあっても最後まで責任を持たなければならない。事故や不幸に繋がったらなおさらだ。そうする覚悟ができなければ人に誰かを紹介することなどしてはいけない」
 言葉の主は名古屋の天皇と呼ばれる人で伝説の不良である。その人は本当に人に対して清くて真面目で本気で責任感に満ちている。紹介した人がヘタこいて、先輩が全部カブったことも知っている。金も、面倒くさい人間界のゴタゴタに関しても、ぜんぶ。先輩にとってはそういうことを全部ひっくるめてはじめて『人を紹介する』ということなのだ。
 人と人との運命的な出逢いを唯一コントロールできるものがあるとすれば、それは紹介である。もちろんそれも運命のうちなのだろうけれど。だとすれば運命に対して決していたずらな気分で参加してはならない。
 いろんな人に紹介されて今まで生きて来たけど、こういうことって本当に難しいなぁとあらためて反省した月曜日であります。








『近々』

 僕はこの言葉が嫌いだ。正確にはその後に続く言葉次第となるのだが、とにかくこの言葉を聞くと人が信用できなくなる。
 この言葉を使用した基本例に以下の2パターンがある。

『近々飲みに行きましょう』
『近々仕事しましょう』

 こんな言葉を口に出した人と僕は飲んだことがないし仕事をしたこともない。
 稀に『近々恋愛しよう』とか『近々結婚しよう』という大胆な人もいるが、それはそれで中々のもんである。ただ求愛の形としてはインパクトは強いが、たとえ成就したとしても、そのインパクトを超えるような恋愛をしなければ、結局『フンッ、見かけ倒し!』って思われて、やがて減点の対象となるのがオチである。

 そもそも「近々」とは、時間的にいつまでの未来を指すのだろう?それさえ不明だ。
「飲み」を目的とする場合の目安は1ヶ月ぐらいだろうか。仕事となれば半年ぐらいだろうか。
 どれもこれも、とても近々ではないような気がするけど、それでもあまり遠い先ではないから、やっぱり「近々」なのだろうか。ひっくり返せば、そんな曖昧な意味だからこそ使い勝手がよいのだろう。
 なぜ、「近々」がいけないのか?時間的な曖昧さを指摘しているのではない。言いたいのは、その言葉から連想されるイメージと、それに揺れ動く心理があるからだ。
 誰かが「近々」発言をすることで、言われた者は何かを期待する。すると、その人の中ではおぼろげながら「近々」の時間軸が視えてくる。早急ではないけれど、そんなに遠い先でもない、というような感じではあるが、なんだか嬉しくなって見通しが明るくなってくるのは事実である。
 となれば、その人は、その日から一週間ぐらいはわくわくするけれど、その後は、「あれ、連絡ないなぁ、でもまだ一週間だから」と期待と不安が入り交じり、3週間ぐらい経ったあたりからは不安が期待を大幅に上回り、1ヶ月半を過ぎると自分が嫌われているような感覚に陥ると同時に、相手への信用は急激に失せ、一日の大半を「近々」発言について考えるようになり、2ヶ月を過ぎるとすっかり期待などなくして相手を恨みはじめ、半年を過ぎる頃には復讐心だけが燃えたぎりる。こうなると、『オレオレ詐欺』に続く『近々殺人』が起こっても少しもおかしくないのである。

 こうなってしまうことを、誰もがもっともっと知るべきである。人が人の期待や気持ちを軽視したり裏切ったりすることは、そんなところにまで到達してしまう可能性があるということを、誰もが肝に命じておかねばならないのである。
 言葉には責任が必要で、つまり『近々』と発するときにはそれなりの覚悟が必要なのである。

 僕のように勉強熱心な人は、「近々」と言った人のプロフィールと、発言日時、シチュエーション、その日その人が着ていた洋服、履いていた靴、同行していた人の特徴などを克明に記述しておくことにしている。
 そしてその発言にどれだけ心が込められ、それが互いを高め合うための未来的発言であるかどうかを、時間軸で評価することにしている。
 ただし、それが、僕の中でタイムリミットを超えたとしても、僕は決して恨まないし成敗もしない。
 なぜなら、僕は自分が大切だから。そんな軽薄な人に怒る事は無駄だし、まして叱るなんてありえない。
 そんな経験をすればするほど、その言葉を使わないようにすればいいだけなのだ。
「近々」にかわる言葉を、もっともっと分り易く用いて、約束を守ればいいだけなのだ。
 
 そして誰かが覚悟を持って言う。
「近々仕事でもしましょう」
「ケッコウです」

 だから人間は面白い。




堀の隙間からニョキっと顔を出す生命力。妙に感動する。




『珈琲屋のひとびと』

 あるご縁がきっかけで駅前の珈琲屋さんを贔屓にしている。そこには即席のフランチャイズ店とは趣きのちがう、なんとも豊かな時間と香りが流れていて心地が良い。
 僕は20代後半まで珈琲が飲めなくて、喫茶店に入れば女子中学生のような飲み物をオーダーしていた。なんとかパフェとかサンデーとかなんとかジュースとか。どれも共通していることは、甘いことと珈琲ではないということである。ちなみに今までにひとりで喫茶店に入ったことは10回ぐらいしかなくて、そのうちのほとんどは今書いている喫茶店である。いやちがうわ、ココは純粋な珈琲豆専門店であり、たまたまカウンターがついていて、せかっくなので選んでいただいた持ち帰り用の豆を挽いている間に、挽き立ての珈琲を召し上がってくださいというお店だから、喫茶店というカテゴリーには属さない。となると喫茶店文化圏出身ながら、ほとんどひとりでサテンに入った事がないことが、たった今判明した。
 そんなお店には、なんとかバックスに来る人みたいに、ちょっと焦ってるような人ではなく、温泉にでも入るような気分でゆったりと珈琲を愉しみにくる人が多い。珈琲を一杯飲むだけでも、なんだか紳士淑女感漂う、気品とゆとりが融け合うような、イギリスの絵本に出てくるような雰囲気の人が多いのだ。

 今日、その店にいたおじいさん。ロマンスグレーを超えてロマンスバーコード、柳生博風味。ツイードのジャケットにウールシャツ、カシミアのマフラーにグレーフランネルのトラウザース。ジャケと揃いのハンチングに極めつけはキャラバシュパイプ。どこから見ても、フランス留学経験のある画家だ。
 あんた金持ちだろ?という目で視ている俺の心を読んだのか、爺さんは口を開いた。
「金(キン)の価値が少し落ちてね、その分プラチナが上がったから、差し引いてもかなり得をしたよ」
 間違っても「儲かった」とは言わないところが画家っぽいわけであり、もし「儲かった」と言ってしまえば、ただのスケベ爺である。紳士は語尾に「よ」を付ける。「のだ」や「である」となると単なる軍人上がりの頑固爺で、「さ」とか「じゃん」だと横浜生まれのアバンギャルドである。
「そうですか、うらやましいですね」と僕は軽く返したが、それを見てマスターはしかめっ面をして高速振動で首を振った。どうやらそれが爺さんのキックオフになったらしく、それからというもの、爺さんは僕の珈琲がアイスコーヒーになるまで金と株の話を繰り広げ、僕は冷めきった珈琲を飲み干して、サービスでいただいた2杯目のホットがまたアイスコーヒーになるまで喋りまくったのである。
 マスターの気持ち、爺さんの気持ち、爺さんの気持ちを聞く僕の気持ち、爺さんの長話のせいで旬のうちに飲んでもらえない珈琲の気持ち、さまざまな人間&コーヒー模様が入り混じる珈琲屋という名の避暑地。
 本当はきっと金の話だけをしたいわけじゃない爺さん。「ほらはじまった」と首を振る姿にも愛情が滲み出るマスター。その隣でいつも“ふふふ”と微笑むマスターの奥さん。冷めても美味しい珈琲。話を聞いているだけの珍しい僕。どれもこれも、小ちゃな特別。
 そこには人情がある。街がある。心地よい時間がある。なによりも美味しい珈琲がある。
 きっと爺さん、珈琲屋に来るたびに、とびきりのお洒落をしてくるんだろうな。
 珈琲飲めるようになって本当に良かった。




珈琲屋のマスター。ハンサムなおじさん。




『休みが多すぎる』

 年が明けてようやく仕事に慣れてきたところなのに、いきなり連休とは何事だ。休みがいかんというのではない、単に休みが多過ぎると言いたいのだ。
 そもそも休日なんてものはサラリーマンを基準に考えられたもので、土曜休みとかハッピーマンデーとか、他にもそれまでは飛び石連休だったのに、その間に無理矢理わけのわからん名前の休日を作って、リーマン以外はちっとも仕事に専念できないの国になってしまった。
 申し訳ないが、俺たちのような仕事は、“あー、早く次の休みにならないかなー”なんてこれっぽっちも思っちゃいない。それよりも、次の休日までに、どれだけ何をやれるかが重要で、そんなことに没頭できることがなによりも楽しいのだ。かといって、わっはっはという楽しさではなく、マゾの初心者みたいだけど、ちょっとした充実感みたいなものがジワッとやってくる感覚に喜びを覚え、それがいつしか楽しみに進化するのである。
 サラリーマンが支配しているこの国では、必然としてサラリーマンの暮らしが暦となる。俺たちは、サラリーマンライフに合わせて労働しなくてはならない哀しい生き物なのだ。
 じゃぁサラリーマンになれば?なんて見え透いた質問はやめてくれ。サラリーマンが嫌で、いや、正直言うとサラリーマンになれなかったからこんな仕事をしているのだ。肩書き的には会社経営者だが、やってることはフリーランス時代と何も変わらない、偉そうな事を言うわりにはいつも不安で仕方ない、いい歳こいたフリーターと同じなのだ。
 この国の昨今は、休日を多くこさえたことにより、結果、子供たちの学力は低下し、経済も破綻をきたした。そればかりではない。休みを持て余した社会人が勝手な妄想を抱き、それが哀しい事件を引き起こしたことも数多い。休日を与え過ぎるよりも、ちゃんとした労働時間を確保することの方が、この国には平和的かつ生産的かつ教育的なのである。
 かといって今更、やっぱ土曜日は仕事で、大型連休もお預けなんてほざこうものならラクして食ってるリーマンたちが暴動を起こす。相も変わらずヘルメット被って縦長の旗を振りかざす人々が行列を作ってパレードをする。これもまた見るに耐えない哀しい光景だ。
 少なくとも俺は、休日とは疲れを癒す時間だと思っている。疲れもしない奴や疲れることを拒否している奴に休日など必要ないと思う。この国が上昇気流を描くためには、まずもって休日に「ありがた味」を感じることではないだろうか。休日とは「あたりまえ」ではなく、「ご褒美」。ちっぽけではあるが、そんな感謝の念ががないと、気持ちを込めて仕事はできないと思うのだ。

 以上、ちょっとだけサラリーマンを羨ましく思う中年男性より。




中目黒生活10年目にして初めて上った駅前歩道橋。街は無休で働いている。





2008/01/22

『今こそ朝青龍』

2008/01/21

『紹介』

2008/01/18

『近々』

2008/01/17

『珈琲屋のひとびと』

2008/01/16

『休みが多すぎる』
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