『御仁の言葉』

 飲み屋のカウンターでたまたま隣に居合わせた初老の御仁に、いきなり「君にとって仕事とはなんだ?」と言われたので、「ラブレターです!」と言ったらハイボールをご馳走してくれた。
 御仁にしてみればオレなどヒヨっ子同然なのだろう。ちょっとからかってみたに違いない。
 ところが意外と話は弾み、なにかにつけて恋愛論を絡ませながら人生訓みたいなものを聞かせていただいた。
 帰り際に御仁は「酒はどこで飲むかより誰と飲むか。仕事は誰とするかより何をするか。ラブレターと似てるだろ」とウインクされた。
 なるほど、という感覚を憶えることはありがたいものである。



『世界の中心でさけぶこと』

 「世界の中心で、愛をさけぶ」という映画があったが、もしオレが世界の中心で何かを叫ぶとしたらどう叫ぶのだろう?と考えた。するとやっぱり「愛してるぞー」と言うに決まっていることを確信した。
 愛してる。この気持ちがあるから人は生きられるのだと思う。
 どんな苦境に立たされようとも、決して折れない気持ちがあるのは自分を愛するがゆえ。気持ちが折れてしまったとしても、呼吸することをやめないのは自己愛に他ならない。まして愛する誰かや何かがあればなおさらである。愛は宇宙のようなもので際限も実態もない。地球だって他の惑星から見れば宇宙の一部。人は宇宙の中にいて、自分の中にも宇宙を持つ稀な生命体である。そして誰もが自分を知らない。知らないが故に自己を確認し、また誤摩化す。どれもこれも愛という名の自分探し。
 誰かを愛することも、誰かを罵ることもすべてが自分との距離や温度差を測るためのもの。可愛い子犬を愛でるのも問答無用でゴキブリを踏みつぶすのも、すべてが自己愛の確認である。
 愛があるから人は生きられる。愛があるから災いが起こる。どれもこれも愛がそうさせる。考えるほどに厄介だが、愛がつきまとわない人生ほど薄っぺらいものはない。そして、愛があるから人なのだ。
 イエスも仏も、きっとこんなことを言っているのではないだろうか。人はいつだって、世界の、いや宇宙の中心にいるのである。



『マイケルをさがして…』

 ある社長からハロウィンをやるのでマイケルジャクソンを探してくれと言われた。オレはこの手のリクエストに猛烈に燃える。MJがいるわけないのにどう探せというのだろうなどとは微塵も考えない。MJ亡き後にMJを探す。それがミッションである。あー燃える。マイケルどこだー。
 仲のいい後輩に相談したら一発解答。「いますよ、マイケル」。そんなウマくいくわけないじゃん的な話であるが、後輩の情報をパソコンで辿ってみたら、本当にマイケルがいた。その筋では世界的に有名なダンサーでマイケル追悼番組が頻発していた頃には毎日メディアに登場していた人物である。さらに検索をすすめると「マイケルとマドンナが取り合った男」と出ていた。
 こんな凄い人にどうやってお願いするのだと弱小のキャスティング会社みたいに弱腰になっていたら、「知り合いっすから問題ないっすよ」とまたまた後輩が頼もしいことを言ってくれた。すごいぞ、後輩。
 待てよ、後輩も凄いが、誰よりも先にその後輩に電話したオレの直感も大したもんじゃないか。…ん、ちがうか。そういうことでは、ない…ぞ、と…。
 どうやらそのマイケルはニューヨークに帰らねばならずハロウィンでのビリージーンは不可能になってしまったが、なんとなんと、後輩はNEXTマイケルを準備してくれていた。しかも二人。これでビリージーンとビートイットを同時に見れる。ダブルムーンウォークってのもありだ。横並びでスリラーもある。おー、マイケル、マァイケル…。
 それにしても「ビートイット」と「ビリージーン」をカタカナで書くと間抜けだ。



『お店と人』

 ものづくり学校でイカ玉焼きとプリンの屋台の番をしていたら、完全に店の人に間違われたのでそのままいくことにした。店の人というのは話しかけなくても話してもらえるからありがたい職業だと思った。もちろん食い物を通してのことではあるけど。
 もともと人と人の間には何かがないと会話は生まれにくい。話すための理由と言うかきっかけというか、そんなこと。初めて話す人に、いくらこっちが気合いを入れて“話すぞ”と意気込んでも、向こうは“急に来られても感”満載のときがある。人と人の初会話のタイミングはそんなに容易いものではない。だからほとんどの人は話すきっかけづくりのために「お天気ネタ」を使うのだろう。
 会話の多い店には人が集まる。集まった人たちが、初めて同士なのに「店」をネタにしてすんなりと会話に入っていける。自己紹介なんてその後で、“そういえば名前聞いてませんでしたね”なんて・・・最高じゃないですか。
 「人見知り」とか「口べた」だとか平気で言う人はお店の仕事をすればいいと思う。逆に口べたや人見知りの人ほどやるべきだ。言い訳ができないからである。人には性格があるからもっともだとは思うけれど、都合のいい時だけ話して、苦手意識を勝手につくって、場合によっては人任せ。これは困る。「口べた、人見知り」としおらしく言ったところで、場合によってはわがまま以外のなにものでもない。
 それはそうと、屋台を挟んで店の人とお客さんが会話をする。それだけでいろんな可能性が生まれるってことだけは事実。中には会話がしたくて店を覗く人もいるのだろうなとしみじみ。
 お店と人、実に深くて尊い関係だ。




「ものづくり学校のうれしいプリン」




『ともだちについての話』

 何十年ぶりかにかかってきた電話は、とりあえず「元気?」から始まったけれど、会ってなかった時間をなんとなく埋めるようなどうでもいい会話をしたあとに、「あのぉ、○○のチケットって取れる?」だった。こういうケースは初めてではないが、正直ガッカリする。多分、そいつは誰かにいい格好するために、「なんとかなるよ」か「なんとかするよ」と言ったのだろう。
 オレはこう聞き返す。「どれだけ頑張った?」。そいつは「とりあえず全部あたってみた」と返す。「どれぐらい?」とまた返すと、バツが悪そうに、「とりあえずいろんな方法で…」とモゴモゴする。「本気でチケットを取ろうとしたのならどれぐらい大変かわかるはずだろ?」と追い打ちをかける。すると黙る。「なんでオレに頼むの?」とさらに追い込むと、「取り易いと思って…」とさらに株を下げる。何十年も会ってない奴から頼まれてなんでオレがせっせとチケット取ってやらにゃならんのよ。それでなくとも人気アーティストのチケットは入手困難で、日本中の人たちが必死でトライしているのに、都合の良いこと言いなさんな。
 たとえ毎日会ってる奴でもオレは断る。そんなもん平等じゃない。オレが取ったらどこかの誰かが取れなくなる。道理はそこだ。
 似たケースで選挙前の電話というのがある。これまた何十年も前に会ったやつがテンション上げ上げで電話してくる。
 
 友達の線引きってどこだ? 都合がいいのが条件なのだろうか? カタイこと言わずにそういうもんでいいのだろうか? 
 そういう人たちには「あいつは友達なんかじゃない」と言われてるかも知れないが、それが正しいのかもしれないな。









2010/10/13

『御仁の言葉』

2010/10/08

『世界の中心でさけぶこと』

2010/10/06

『マイケルをさがして…』

2010/10/05

『お店と人』

2010/10/04

『ともだちについての話』
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