『ドブネズミ』

 昼間、猛暑のアスファルトをねずみが前足だけで前進していた。後ろ足は投げ出されていて引きずっている状態だった。必死にドブに逃げ込もうとしているが、まだ1メートル近くもある。かなり弱っていてかたつむりぐらいのスピードしか出せず、ドブ板の隙間にたどり着くにはまだ3分はかかるだろうか。
 容赦なく照りつける太陽、焼けたアスファルトに体をこすりつけるようにしながらも、ひたすらにドブを目指す生への執念。
 つまんでドブに運んであげたかったがやめた。余計なことをしたら生態系が崩れる。見るも忍びないねずみの姿。頑張れミッキー(急にミッキーに変更。かなり美化してるな)。
 応援むなしくミッキーはドブの穴寸前で息絶えた。覗き込んで呼吸を確認した訳ではないが、おそらく…。生と死の境界線を彷徨うミッキーの姿には感動すら憶えた。自分の居場所に回帰しようとする本能が生への執念を映し出したのだ。もし彼に理性があったとしたら、せめて死ぬ場所はドブの中で、そう思ったに違いない。
 ドブネズミみたいに美しくなりたい…。その光景を見で心の中にある何かが揺れた。同時に、くだらない人間たちとどこか比較していた。
 白昼のドブネズミ。美しく、見事な最後だった。



『西麻布笑顔の男』

 スタイリストの大久保さんと渋谷の居酒屋で一杯ひっかけてから白金のBarに入った。そこそこ雰囲気も良くて、女をオトそうとしている野獣達が勝負球に使っているような店だった。野獣たちはどいつもこいつも仕事の手柄話を雄弁に話していて可愛かった。「オレがプロデュースしてやった」とか「オレが仕込んでやった」とか、聞いてて実に微笑ましい。あるCFをディレクションしたと豪語していた若者がいて、そのCFはオレの知り合いの○○さんが演出したはずだよと教えてあげようと思ったが、そんな野暮なことしても仕方ないのでやめた。
 はじめから一杯だけのつもりで入り、オレたちはそれぞれお気に入りのバーボンをソーダで割って飲んだ。値段はそれぞれ1400円とそこそこするが、雰囲気料ということで承知した。なんちゃってヤンエグたちのテキトーな話に耳を傾けながらちょっと色っぽい話なんかもして、いい気分でバーボンソーダを飲み干した。
 さて、次いきますか、ということでお会計すると、“4900円です”とバーテン。「ハッ?」である。言わしてもらうが、あの程度の店でテーブルチャージが付くとは思えないし、付いたとしても高すぎる。陽気な大久保さんの顔色が変わりオレの眉毛も吊り上がった。顔を見合わせて“どうする?”サインを交換したが、大久保さんが目を閉じてコクリと頷いたのでそのまま何事もなく店を出た。
 せっかくの楽しい飲み会にケチがつきタクシーの中ではバーとバーテンの在り方について語り合い、オレたちは苛立を抱えながら西麻布へ移動した。タクシーを降りてしばらく歩いていると、近づいてきたクルマの中から素敵な笑顔で会釈をする青年がいる。「お久しぶりです」、松田翔太である。実は渋谷の居酒屋でも彼の話で盛り上がったのだ。「礼儀正しい男」それが話のキーワードだった。
 一瞬で人を爽快にさせるのもスターの条件である。いや、それよりもデキた男の証である。翔太に会っただけで下らない出来事はすべて忘れ、俺たちはふたたびバーボンソーダで乾杯した。



『立ち話』

 炎天下、事務所のあるマンションの前で先日飲み屋で会った男に声をかけられた。「おー、元気か?」と、とりあえず声をかけてみると、「クリさん、クリさん」とオレの名前を連呼した。
 声のトーンと笑顔から、なんとなく嬉しい様子だったのでそのまま事務所に入っては悪いと思い軽く立ち話をすると、男は隣のラーメン店の長椅子に腰掛けてタバコを取り出し火を点けようとした。
 ちょとまて。この暑さで日陰もない。あと数秒でクーラーの効いた事務所に入れるのに…。でもコイツ、かなり嬉しそうな顔してる…。やっぱちょっとだけでもこの場で付き合わなきゃだめだろうか、いやコイツだって暑いはずだ。しかも上下真っ黒の洋服ときてる。顔も南方系でかなりカロリーが高い。なんてモジモジしていたらタバコに火がついた。同時にオレの汗腺にも火が点き、額と首と脇から汗が噴き出した。
 「クリさん、クリさん、クリさん」、今度は3連発だ。嬉しいのは分かるがこの暑さも分かってくれ。お前は平気なのかシャーク?(先日、ドラマ『不毛地帯』の話で盛り上がり、遠藤憲一が演じる鮫島について白熱したことからそう名付けた)
 約3分の立ち話。もっともふたりとも長椅子に腰掛けての会話だが、それでも瀧のような汗が流れオレのTシャツは襟元と脇あたりに妙な柄ができた。
 「クリさん、自分、行きます。それにしてもあっついですよね。クリさん、また連絡します。クリさん、ツイッターで呟いてください。クリさんがどこどこで飲んでるって呟いてくれたら、俺、ソッコー行きますから。クリさん、会えて嬉しかったです。クリさん、暑いですが体に気をつけてください。クリさん、それでは失礼します」
 シャークは帰り際の挨拶に2分以上もかけ『クリさん』という単語を7回も使った。なんか軽く拷問にあった感じだったが、シャークが去った後には爽やかな風が吹いた。
 もう少し涼しくなったら、シャークとの立ち話に存分につきあってあげよう。
 ほんとはオレも嬉しかったぞ、シャーク!



『訪問者』

 先週は岐阜の山間部で洋菓子店を経営する女性が、昨日は同じく岐阜出身のデビューしたてのミュージシャンが「とにかく相談」という感じでやって来た。会う前まではその人を知らないのだから、オレなりにどんな人なのだろう、何を相談に来るのだろうと考える。そういう気持ちは、どこかに振り分けると緊張感というジャンルに収まるのだと思う。ものすごく緊張しているわけでもなく、胸が高鳴っているわけでもないけど、やっぱり緊張しているのかなと感じるし、むしろ緊張感が必要だとも思う。
 ジャンル分けしてるオレなんか問題にならないほどやってくる人たちは緊張していて、作り笑顔にもならないような表情でオレと対面する。その緊張をほぐしてあげようと、こちらもまたさり気なく緊張する。
 人と人が初めて会うということはそういうことだと思う。どちらも相手を気遣い、離れた距離の中から少しずつ心の距離を縮めていくものである。信用と信頼は微妙に違うのだろうが、どちらも自分から距離を縮めようと心がけなければ何も生まれないし始まらない。ましてその先にある信用や信頼にたどり着くはずもない。
 誰に聞くのか知らないが、いろんな人がやってくる。ここんところは故郷の人が圧倒的に多い。きっと東京に住んでる岐阜の人というのが、分かり易い記号なのだろう。
 たった数時間会っただけで信頼や信用なんて生まれないだろうけれど、会った時の表情と帰る時の表情に差があると、オレは嬉しい。こっちも緊張した甲斐があるというものだ。
 人は数時間あれば成長するということの証だ。緊張にしばられていた自分が、本来の自分を取り戻し、それを自分の言葉で人に伝達する。心が動いた証拠だ。自己紹介ほど明確なコミュニケーションはない。
 洋菓子店を経営する女性がお店自慢の洋菓子を送ってくれた。美味しかった。添えてあった手紙を読むと、会った瞬間からは想像もできない彼女らしさが溢れていた。
 こういうことが、実はオレにとってものすごくありがたいことなのだと、最近やっとわかるようになった。



『ランチタイムの大逆転』

 ランチタイムで客が並ぶカフェ。並ぶ客には容赦なく灼熱の太陽が降り注ぐ。やめときゃいいのに、他のチョイスを考える思考能力も残っていない。
 アパレル勤務だろうか、シャレた女性4人組とそのカフェの入り口に同時に足を運んだ。この暑さではどっちが先に並ぶかちょっとした勝負である。4人組のひとりが急に歩行スピードを上げて、オレたちの前をゲットした。こういう時の女子には勝てない。いや勝とうとしてはいけない。そんなことしようものなら並んでいる間中、背中に黒い視線を感じてやまなくなる。そればかりか、チラっと聞こえるように嫌味なんかも。譲って良かった。
 彼女は任務を全うし達成感を感じていたようだった。ただ、互いに店外で入店を待つ身、いわばひとときの同志である。早足で先の順番を勝ち取った彼女はイジワルした感がありありでヒールのポジションにいた。
 こういう時は、背中を見られる方が本当にイヤなのだ。あらためて、譲って良かった。
 猛暑の中ひたすらガマン。窓越しに見える店内の客は涼しい顔でランチをほおばっている。あと少し。この4人が入ったら次はオレたちだ。ところがそこからなかなかお呼びがかからない。イラつく4人。話し声の中に攻撃的なため息が混じり、順番取りで敗北した俺たちにもイラついた視線をチラつかせる。それはそれはイジ悪な瞳、こわいこわい。
 店内から黒服が出てきた。「お待たせしました。が、もしよろしければ2名様をお席にご案内させていただいてよろしいでしょうか?」
 「なんでよ?」と男言葉でキレる4人。彼女達の答えを待つオレたち。
 「彼女たちの後でいいですよ」と大人なオレ。
 控えめなオレの言葉に、「え~っっ?」と機嫌をそこねながらも渋々「どうぞ」と言わざるをえない女たち。
 彼女たちに一礼してから一足先に清涼の店内へ。猛烈に不機嫌アピールをする彼女達が入店できたのはそれから15分も後のことだった。




2010/08/25

『ドブネズミ』

2010/08/24

『西麻布笑顔の男』

2010/08/23

『立ち話』

2010/08/20

『訪問者』

2010/08/19

『ランチタイムの大逆転』
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