『深夜の17歳』

 高校生の男の子と深夜の246を走った。彼の夢は漠然としたものから実現へ、確かなものに変わろうとしている。漠然としたものから何かきっかけをつかむまでの道のりは果てしなく長い。それがたった一週間であったとしても、少年にとっては何億光年の未来に等しい。
 未来を拓くためには今をふんばること以外に道はない。ふんばるとは耐えることである。土俵際で左足のつま先だけでふんばってふんばって堪え続ければ、未来は足の裏からふくらはぎを通過し、大腿部、臀部、脊髄を経由して脳みそまで到達し、目玉の裏側を雫のように流れ落ちながらやがて心に到達する。いくつもの不安が希望に変わり、希望が己の可能性に火を点ける。何気なく視ていた景色を美しいと思い、あたりまえに接していた人に感謝を覚え、生きていることにさえ奇蹟を感ずる。
 何かを成し遂げることよりも、些細なことに心を揺さぶられる人になる。それが成長というものだ。
 頑張れ高校生! 頑張ることの意味を噛み締めながら。
 そして僕たち大人は、少年時代の延長線上にいることを忘れてはならないのである。



『中華料理屋のママさんの話』

 いきつけの中華料理屋さんに行ったら、ママさんに「マロンさん、見たわよ、先週」と言われた。はて、会ったっけ?と首を傾げながら「どこで?」と聞いたら、「どこだと思う?」なんてちょっといたずらっぽく言われたので、心の中で(別にどこで見られても平気なんだけど…)と自己確認した上で、あらためて「どこでです?」と聞いたところ、「夢で」と言われた。
 12年間通った馴染みの店だが、今まで「マロンさん」としか呼ばれたことがなかったが、昨日から「マロンちゃん」に呼び名が変わった。
 名物の餃子をつまみながら、やはり気になるのは夢の内容である。勇気を出して「どんな夢だったんですか?」と聞くと、「どんな夢だっと思う?」とまたギャルっぽくはぐらかされたので、もういいやと思って餃子をバカ食いしていたら、「教えてあげようか。…いい夢、むふふ」と言われた。なんだか知らないが、急激にサウナに入ったようにカラダ中から汗が流れた。
 恥ずかしさの頂点を通り越してしまったところでお勘定を済ませようとしたら、「はい、ボクちゃん」と呼び名がさらに進化していた。
 「お父さんがいなくなってからしばらく経つしね…」。ママさん、またしても妄想発言。俺は指先が震えてサイフから一万円札がスムーズに引っ張りだせなかった。



『メール考』

 「メールしたのに」と責められることがある。言い分は「とても重要なこと」らしい。
 だったらなぜメールなのか。電話じゃまずいのか。電話をして、それからメールでいいじゃないか。
 誰もがいつでもメールを見られる環境にあるとは限らない。見たくても見られない時もある。なのに送信者は急かす。返信が遅れていることを「いい加減」とみなす。
 なんでもかんでもメールメール。「メールしたから」「メールしたのに」「メールしたでしょ」、いささかやかましい。
 メールにはメールの役割があり、すべてにおいて対話や電話を凌駕するものではない。時にはファクスが相応しい時もある。
 なのにメール。メールメールメール。
 隣のデスクにメール、上司にメール、話したくないからメール、先手必勝でメール、アリバイづくりにメール。
 誰もかれもご都合主義のメーラーだ。
 つい先日、ある案件で「メールしたのに」と言われたので「メールじゃわからん」と言った。
 電話をしたらクリアになった。大切な伝達手段をメールオンリーにするなんてとんでもないことだ。



『兄貴の同級生の話に感動』

 今年52歳になる兄貴たちの同級生が、恩師の先生が上京するにあたり、東京でプチ同窓会を開いたらしい。
 先生は現在鹿児島県下の中高一貫教育校の校長先生をされているらしく、校長会で上京されたそうだ。
 そして岐阜県からもうひとりお世話になった先生をゲストとしてお招きして、懐かしくて楽しい時間を過ごしたそうなのだが、その模様が兄貴の同級生の公式(?)サイトに書かれていて、それを何気なく開いたらジンときてしまった。
 サイトに投稿したT子さんは、こう書いている。
 「あの頃、U先生は30代半ば、S先生は私たちのひとまわり上、意外に若かったのに、そのままスライドしやっぱり今も先生。肩を揉まれ、ゲンコツをいただいた高校生の時と変わらないつもりなのに、しっかりと月日は流れ、私たちは50を越えました。でも同窓会はみな、やっぱり昔のままに戻ってしまいますね。先生“ここで授業しようか”と仰ってました」
 「肩もみ」と「ゲンコツ」。僕らの時代、先生と生徒の距離を埋めた魔法の杖。「おはよう」よりも伝わる肩もみ、どんな言葉よりも心に響くゲンコツ。
 今じゃ「肩もみ」はセクハラで「ゲンコツ」は体罰。どこいっちゃたんだろう、感動で泣きたくなるような学園生活は。
 “時代が変わった”のひと言で済ませちゃいけないのだ。時代が変わったら変わったで、今必要な魔法の杖を見つけなければならないのである。でなきゃこの国の先生と生徒の関係は完全にシラけてしまう。

 校長先生は33年前当時の生徒たちに抱いた思いを、33年後の先日、ひとりひとりに伝えられたそうだ。その模様をT子さんはこう綴っている。
 「ひとりひとりに対する想いを33年後にお聞きできるとは思ってもみないことでした。まるで個人面談のように、先生からは33年を経た温かい言葉をいただき、またひとりひとりの33年を受け止めていただき、古巣に帰って来たような安心感で包まれた空間でした」
 
 T子さん、よかったです。ありがとう。



『鉄人、郷ひろみ』

 人と比較して自分を位置づけることは愚かな事だ。比較からは奢りや妬みが生まれる。ときには足を引っ張るとか蹴落とすとか、ろくでもない方向に思考が働いたりもする。
 俺もあったな、嫉妬とか羨望とか。あってあたりまえなんだろうけど、だったらやれよ、ってことだよな。やんないやつは、ずーっと口ばっかで、比較なしでは物事が測れないようなヤツもいる。そんなヤツにとっては、儲かったり有名になったりする人が偉くて、頑張っても結果がでないやつはダメ。分り易いステータスがすべてなのだ。だからおのずと儲かった奴にくっついてコバンザメみたいになってる。それでもそいつは気持ちいいらしくて、我が物顔してどでかい態度で周囲に振る舞っている。
 郷ひろみさんは立派である。あの人の中には比較という文字がない。あるとすれば自分とのものである。毎年毎年、自分を越えることを目標に日々を錬磨されている。かれこれ39年間、できるこっちゃない。
 いつも7歳上のひろみさんを見ていて7年後の自分に置き換えてみるが、年々、どんどん離されて行く気がしてならない。野球でいうと先発完投型。それもペース配分を考えずに初回からMAXで投げきるタイプ。腕がシビれて握力がなくなってきても、打たせて獲るのではなく三振を狙いにいくのである。しかも中4日5日ではなく、3連投なんてこともある。だからアイシングも徹底的にやる。フルに使い込んだカラダを休め回復させることにも尋常の努力じゃないのだ。芸能界に鉄人がいるとすれば、まさしくあの人のことを言うのだろう。
 どうしたらあんな50代になれるのだろう? ため息にのっかってそんな言葉がポロリ。
 「生きる」ことに対していろんな本が出ているが、僕にとってはどんな本や映画より、郷ひろみを観ている方が勉強になる。
 俺も比較なんてやめるぞ。




2010/06/11

『深夜の17歳』

2010/06/10

『中華料理屋のママさんの話』

2010/06/09

『メール考』

2010/06/08

『兄貴の同級生の話に感動』

2010/06/07

『鉄人、郷ひろみ』
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